[その1]勘ちゃんは街の人気者

 「魚屋の勘ちゃん」とは、長屋の住人もよく利用していた近所の魚屋、浜田鮮魚店の一人息子浜田勘次の事である。年齢は当時、おそらく二十歳前後だったと思うが、家業を継ぐ為にこの鮮魚店で働いていた。
 勘ちゃんは魚屋の倅らしく、威勢がよくて突き抜けたように明るい性格、少々お調子者だが俳優にしたいような男前(今思えば待田京介に似ていた)とくれば奥さん連中のウケもよく、「魚勘(うおかん)」と呼ばれ親しまれていた。(ちなみにオヤジの方は浜田長吉で「魚長-うおちょう」である。)一方で、捻りハチマキにゴム長、片手に大きな桶を下げ、自転車で料亭や割烹が軒を連ねる路地を颯爽と駈け回る姿は、花街の姉さん達の間でも噂となっており、こちらでは「南の太助」という別名を頂いていた。
 勘ちゃんは感化されやすく非常にハマリやすい一面も持っており、時間が空いた時には私達の遊びにも加わって真剣にはしゃぎ回るので子供達の間でも人気は抜群であった。それで私達は親しみを込めて「勘ちゃん」と呼んでいたのである。
 このように老若男女問わず人気があり、各世代からそれぞれのニックネームで呼ばれていた勘ちゃんは、さしずめ看板娘ならぬ魚屋の看板息子といったところだろうか。だが、そんな勘ちゃんにも苦悩はあった。
 勘ちゃんは芸達者である。手品にタップダンス。中でもクラシック・ギターが最も得意であった。当時子供だった私にはそれがどの程度のレベルであったのか計り知ることはできないが、大人達もじっと耳を澄まして聞いていたところを見ると十分なレベルであったのであろう。勘ちゃんのスゴイところは、情報も資料も乏しい時代にこれらをすべて独学で身につけていたことである。まさに「ハマリやすい」勘ちゃんの面目躍如だ。  
 そんな勘ちゃんが昭和34年の冬のある寒い日、突然、我々の前に現れた。顔を真っ赤に上気させ白い吐息も荒い。相当に昂奮しているようである。と、手にしていたギターを「ジャーン!」とかき鳴らした。これまでのクラシックな演奏スタイルとは明らかに違うことは子供にも分る。そして、「いま東京じゃロカビリーという音楽が流行っとるんぞ、これからそいつを聞かせてやっからよっ!」そう言うと、いきなり「♪きみーは僕より年上と まわりの人はゆうけれど〜」と腰をクネクネと揺すりながら歌い始めるのである。途中からは一体何事かと大人達も数人集ってきた。おそらくレパートリーがつきたのであろうが、突然のショーは3曲ほどで終った(それでもスゴイ!)。一瞬間をおいてから思い出したように拍手が起ったが、勘ちゃんは満足げに空を見上げると「これがロカビリーだ、これからはロカビリーの時代だぜ!」と叫んだ。そして、「スイングしなけりゃ意味ないね」という訳の分らない捨てぜりふを残して去っていった。なんだかよくわからない出来事だったが、子供の目にも「カッコイイ」と映ったことは確かだ。その後しばらくの間、近所の子供達の間で「スイングしなけりゃ意味ないね」は流行語になった。
 すっかりロカビリーにハマってしまった勘ちゃんの「いきなりワンマンショー」は益々エスカレート。近所の食堂や寿司屋で強引に例の3曲を歌っていたが、もっとも脚光を浴びたのが、翌年、駅前商店街主催で行われた祭りのメインステージ「素人歌合戦」だった。なにしろ優勝の賞品が当時は金持ちしか買えなかったテレビである。ましてやこんな田舎では日頃娯楽も少ない、人々はこういったイベントに飢えている。前宣伝の効果もあって会場は超満員となった。

つづく


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