[デビュー秘話]

三井礼二……。

 三井礼二は、大阪、京都、名古屋を中心に活動していた「ウェスタン・キャラバン」のバンドボーイ兼歌手だった頃の芸名である。当時はカバー・ポップス、とりわけロックン・ロールの全盛期、西郷もレパートリーはほとんどがロックだった。その頃の三井礼二を知る人の話では、彼のステージは跳んだり跳ねたり、相当に激しかったそうである。まあ、ロックだから当り前だけれども、日劇ウェスタン・カーニバルのシーンを思い浮べたらその様子は大体想像はできるが、青春歌謡路線で人気を博しているときにも、どこかポップスの匂いがするのはそういう経歴があるからかも知れない。御三家の中では、橋幸夫がちょっと鼻にかかった声で、流れるような歌唱法、舟木一夫はソフトで優等生的な歌唱法だとすると、西郷輝彦の歌い方は骨太でワイルドだったと言える。

苦労人

 お兄さん(37年8月に海難事故で他界)がドラマーだった事もあり、その影響で音楽に目覚め、いつしか歌手になりたいという願望が強くなっていった。野球の名門、鹿児島商業高校1年性の時に応援団として大阪・甲子園に行った西郷は、そこでジャズ喫茶「ナンバ一番」のコンテストがあることを知る。矢も楯もたまらず、一旦、故郷鹿児島へ帰ると早速高校を中退し、両親の反対も振りきって家出同然で故郷を飛びだし再び大阪へ、しかし、金もなく、頼る人もなく、取りあえず大阪のアルサロに潜り込んだ。しかし、コンテストには失格。帰るに帰れず、バンドボーイとして働かせて貰うことになった。
 この当時のバンドボーイというのは通称「ボーヤ」と呼ばれ、かなり過酷な労働だった。楽器類はどれもとにかく重い。クルマからの積み卸し、ステージでのセット、解体、バンドマンの使い走り、肩もみ、靴磨き、下着の洗濯。それで給料はほんの小遣い程度であった。だが、ボーヤ達はみんなバンドマンや歌手になりたいという夢を叶えるための手段として働いていたので、お金はそれほど問題ではなく、またこの世界はそれが当り前と認識していたので本人達はそれほど苦労とは思っていないのだが…彼自身も相当につらい時期だったはずだが多くは語らない。だが、彼にとって本当につらかったのは、そういった労働ではなく、なかなかステージに立てなかったことの方だ。やはり同じような立場の他の歌手の卵達がコネやカネで次々とステージに上がっていくのを見ると、あせりとやるせなさで自暴自棄になっていった。そして、反対はしていたものの、本当は密かに心配をしていた母親に対しては「もうすぐデビューするから」と嘘の手紙を書き続けていたことへの自己嫌悪。そういう状況から酒におぼれ、入院を余儀なくされたこともある。
 そんな生活が5ヶ月ほと続き、ようやく名古屋のジャズ喫茶で歌えるようになり、その後、人気バンド「ウェスタン・キャラバン」に加入。そして昭和38年4月、バンドの一員として上京するのだが、そこで相沢氏(最初のマネージャーであり、現在、サンミュージック社長)に見いだされる。

ついにデビューが決る

 設立されたばかりのクラウンに入社することが決まり、ようやく念願の歌手への夢が現実のものとなった。実はこの時、彼自信はずっと歌ってきたポピュラーでのデビューだと思っていたのだが、しかし、会社は最初の面談の時に西郷に対して歌謡曲をリクエストしている。この時に歌ったのが舟木一夫の「高校三年生」。ロックを歌っていた彼は、実は歌謡曲といえばこの曲しか知らなかったのだ。ところがこれが会社には好評で、本人の意思とは裏腹に歌謡曲でデビューということになった。
 さっそくデビューに向けて、クラウンの専属作曲家である北原じゅん氏のレッスンを受けることになったが、ロックが身体にしみついてしまって、なかなか歌謡曲のリズムに乗れず、相当にきびしいレッスンとなったようである。
 そんな苦労も報われる時が来た。ついにデビューが決まったのだ。芸名は故郷の英雄、西郷隆盛にちなんで西郷英二。だが、父親の姓名判断により「輝彦」に変更された。初めての自分の曲は恩師北原じゅんの作曲で、タイトルがないまま、レコーディングは昭和38年12月7日に決定。彼は自分の意見として「いつでもいつでも」を提案したが、結局「君だけを」に決った。のちに西郷自身が「君だけを」でよかったと述懐している。
 昭和39年2月、新生クラウンレコードのホープとして西郷輝彦はデビューした。キャッチフレーズは「夢を売る少年」。しかし「君だけを」は当初なかなか売れず、一度は失意のまま名古屋に帰っている。ところが、歌手への足がかりとなったその名古屋の地から火がついた。「君だけを」は大ヒットとなり、ルックスの良さとも相まって、一躍人気スターとなった。
 早くも、同年の5月には大阪・大劇で凱旋興行。歌手として初舞台の客席には両親の姿があった。彼の脳裏には勘当同然で飛びだした日からこれまでのこと、志なかばで死んだ兄のことなどが走馬燈にように駆けめぐり、両親の肩を抱きながら、あたりをはばからず男泣きに泣いた。勘当は感動に変ったのだ。

御三家が出そろう

 日本中がオリンピックでわいたこの年の暮れ、第6回日本レコード大賞の新人賞を受賞。対象曲は「君だけを」と「十七才のこの胸に」の2曲だった。ちなみに女性歌手の新人賞は都はるみ「アンコ椿は恋の花」。大賞は青山和子「愛と死を見つめて」。
その後も、「チャペルに続く白い道」「星空のあいつ」などヒットを連発、人気を不動のものにすると、橋幸夫、舟木一夫と並んでいつしか歌謡界の御三家と称されるようになった。

お宝秘蔵写真大公開!(期待はずれかも)
主なシングル盤リストとジャケットと当時の雑誌コメント
主な出演映画と想い出

西郷輝彦プロフィール Profile

[PHOTO]平凡社

■本名:今川盛輝
■昭和22年2月5日生
■鹿児島県出身
■昭和39年2月デビュー

昭和39年2月、日本クラウンレコードに入社、「君だけを」でデビュー、同年の日本レコード大賞新人賞を獲得。男らしいルックスとリズム感にあふれた歌声で若い女性を魅了した。「御三家」の中では一足遅いデビューであったがあっという間にスターの座にかけのぼった。昭和39年11月、自らのヒット曲を映画化した『十七才のこの胸に』でスクリーンデビュー。歌に映画に大活躍。昭和48年、フジテレビ系のドラマ『どてらい男(やつ)』に主演をきっかけに役者に専念。その演技力で役者としても確固たる地位を築いた。

[デビュー当時の平凡のインタビュー記事より]
●食事は?:どっちかというと洋食が好きで、1日に5食たべます。
●すきなたべもの:肉の鉄板焼き、油っこいものが好きです。
●きらいなもの:なし
●今凝っているもの:占い。特に顔相と手相。
●自慢のものは:カナリヤ。2羽飼っています。
●自分の顔で好きな部分は:目と眉。
●ではきらいな部分は?:鼻(笑)

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