藤圭子「新宿の女」デビュー秘話
伝説の「新宿25時間キャンペーン」

 藤圭子が「新宿の女」でレコード・デビューしたのは昭和44年(1969)の9月25日。しかし、発売当初は思うように売れなかった。
 藤圭子は元々、この曲の作者である石坂まさおが、自ら発掘してその素質に惚れ込み、プロデュースはもちろん、マネージャー役までかって出て育て上げた歌手。その為に「日本音楽放送(有線)」などの資金協力を得て自前の「藤プロダクション」を設立した。(社長は日本音楽放送の工藤宏氏)ちなみに「藤圭子」という芸名は工藤氏の「藤」と、工藤氏の妹である桂子にちなんで「圭子」にしたものである。
 大手のプロダクションでさえも、実績のない、それも無名の新人を売り出すのは至難の業、毎年300人〜500人がデビューする中で、一般に名前が知られ、活躍が出来るのは5%に満たない世界なのだ。ましてや藤圭子一人だけの為の新興プロダクション。いくら作詞家として人脈のあった石坂まさおといえど大きな賭けであったことは間違いない。しかし、持前のアグレッシブさと粘りとアイデアでぐんぐんつき進む。そして考えついた売出し作戦が、藤圭子が「流し」をしていた経験を生かしての「新宿25時間キャンペーン」つまり、25時間ぶっ通しで流して歩くという仰天計画であった。

ドキュメント「新宿25時間キャンペーン」

 昭和44年(1969)11月8日(土)朝の9時「新宿25時間キャンペーン」は西向天神からスタートした。
 石坂は事前に各雑誌社、新聞社、テレビ・ラジオ各局に周到に根回しをしていた。ただ流して歩くだけではインパクトは弱い、メディアを巻き込んでの立体的なキャンペーンにしたかったのである。
 スタート地点となった西向天神には、かねてより懇意にしている故林家三平とその一門が駆けつけ、出陣式をおこなった。(この中に林家ペー・パー子もいる)かくして藤圭子と石坂まさお、それにRCAレコードの担当ディレクター榎本襄と蒲田の「スター楽器」の従業員、斉藤信之の一行は新宿の雑踏の中に繰り出して行った。新聞20紙、週刊誌16誌、ラジオ13番組、テレビ7番組が後に続く。レコード店から歌声喫茶、美容院にまで飛び込んで歌いまくる。途中、フジテレビ「歌のスターパレード」に出演。
 夜になると、バー、スナック、酒場などをまわる、午前0時を過ぎる頃にはほとんどネオンも消えていく、さらに深夜になると新宿コマ劇場前の噴水広場で歌った。やがて夜明けが近くなり、人通りも少なくなると、オールナイトの映画館に入り、幕間に歌わせてもらう。夜が明けると24時間営業の食堂に入って歌う。それにしてもさすがに流しで鍛えたノド、すでに疲労は限界にきていたはずだがまだ声は出ている。石坂まさおは、その凄味さえ感じさせる少女の根性に舌を巻いた。
 翌9日午前10時、ようやく長かった「新宿25時間キャンペーン」は終った。密着取材をしたスポニチは、このドキュメントを月曜日の芸能面ぶち抜きで掲載した。タイトルは「流し、25時間!スターへの一念、このモーレツ少女、新宿族に訴える」であった。
 70年安保をひかえ、騒然としていた「眠らない街・新宿」の「眠らない美少女・藤圭子」GSや反戦フォーク全盛の中、演歌で勝負した藤圭子に「新宿」は同じ臭いを感じ取ったのか、いくつかの伝説を残して、スターへと駆上がる土台となった。


[トピックス]
 
石坂まさを作詞作曲家生活30周年を記念して「新宿の女」と「圭子の夢は夜ひらく」2つの歌碑が新宿に完成!
 伝説の「25時間キャンペーン」の出陣式を行った「西向天神社」に『新宿の女』の歌碑が建てられた。除幕式に藤は姿を見せなかったが、同曲を作詞作曲した石坂まさを氏は当時に想いをはせ、涙を浮べていた。また同じく新宿「花園神社」にも「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑が建てられた。
 石坂まさをと藤圭子の原点ともいうべき新宿の「西向天神社」と「花園神社」。 新宿の喧噪の中に咲いた一輪の花は、永遠に咲き続けるだろう。


 最初のアルバム『新宿の女』は、1970年3月30日付から8月10日付までオリコンで20週連続1位、次作の『女のブルース』は翌週の8月17日付から12月7日付まで同じく17週連続1位を記録した。売り上げ枚数は『新宿の女』は30.1万枚、『女のブルース』は19.1万枚。当時のLPの売上げは3万枚売れれば大ヒットといわれていたので、驚異的な数字だ。

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