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旅から旅への「流し」生活

 阿部純子の父親、阿部壮は、芸名を松平国二郎といい、地方回りの浪曲師であった。母親澄子もまた寿々木澄子という芸名で浪曲師をやっていたことがある。その日その日の生活費を求めて東北や北海道の村々を流して歩く。お祭り、工事現場の飯場、老人ホームの慰安会、お寺の境内などが主な舞台であった。純子が生れたのはそんなさなかの昭和27年(1952)7月5日、岩手県一関においてだった。
 姉の富美恵、兄の博を含めて一家5人は、永く続いた旅から旅への生活からようやく北海道旭川に居を構える。子供達が学校に上がる年齢になったからであるが、しかし両親は相変らず地方回りで生計を立てなければならない。旅先から仕送りをしながらの生活が続いた。
 純子が小学校5年生の時に北海道の巡業について行った。そこで間をつなぐ為に急遽舞台に上がり、畠山みどりの「出世街道」や美空ひばりの「柔」などを歌って拍手喝采を浴びる。それ以来、純子は一家の看板娘、大事な稼ぎ頭となった。時は流れて中学三年生で岩見沢の娯楽センター「喜楽園」の専属歌手に迎えられる。そして、昭和41年(1966)中学校の卒業式を間近に控えた2月、岩見沢の「雪祭ショー」に予定していた歌手が辞退し、代役で出演した。この時に居合せた作曲家の八洲秀章に認められ、東京に出ることを奨められる。

上京、そして、石坂まさお(澤ノ井千江児)との出逢い。

 一家は真剣に思慮した結果、旭川を引き払って上京することを決意する。大きな賭けであった。だが、東京で出てきたからと言ってすぐに生活が変るわけではなく、両親は相変らずの「流し」で日銭を稼いでいた。そのうち父親の壮が永年のムリがたたって体調を崩し、働けなくなってしまった。純子は昼間は八洲秀章のレッスンを受けながら、夜は母親と錦糸町や浅草方面を流して歩いた。島純子の芸名でファッションモデルもやった。しかし、生活はいっこうによくならない。合間を縫ってレコード会社も回ったがどこも相手にしてくれない。
 純子は八洲秀章のもとを離れ、作曲家上条たけしの門を叩いた。そこで同じくレッスンを受けていた品川芳輝と出会う。東芝レコードへの売込みに失敗して意気消沈している純子に品川は声をかけた。折しも今、歌謡界はGSやガールズ・ポップの全盛時代。阿部純子の背負っている人生や生活から滲み出てくる雰囲気はあまりにも暗すぎた。「純ちゃんの個性を生かすなら澤ノ井先生の所へ行ったほうがいいよ」。
 澤ノ井千江児もまた、愛人の子として生れ、本妻に育てられたというドラマチックな幼少期を過し、作詞家としても長い下積みを経験している。品川は阿部純子と澤ノ井千江児に共通する「痛み」「臭い」を感じていたのかも知れない。あるいは、澤ノ井が東芝の専属ということもあり、そっちの面でもアプローチしやすいと踏んだのだろう。とにかく、純子は澤ノ井の家に入りびたるようになった。
 澤ノ井はまず、純子の歌声に驚いた。幼い頃から両親と一緒に厳しい気候風土の東北・北海道を巡業してまわり、鍛えられたノドからしぼり出される「情念」とその背景にある「境遇」や「宿命」。わずか17歳で、しかも日本人形のような美少女とは似つかわしくない、そのアンバランスさに「作られたモノではない」本物の「凄味」を感じた。
 それと、純子の置かれた今の境遇だ。父親が倒れ、そして母親もまた、実は純子がまだ幼い頃から、過労と栄養失調のために視力をほとんど失っていた。聞けば、このまま放っておけばやがて失明するという。普通の家庭の主婦ならば、かすかな視力でも「慣れ」で普段の生活はなんとかなるだろう。しかし、純子の母親澄子の場合は、そんな状態で旅から旅の「流し」生活を続けていたのだ。
 「一家を楽にしてあげたい!その為に金の稼げる歌手になりたい!」
 純子の歌には、世間に裸でぶつかり、跳ね返され、生きのびてきたものだけが知る人間の命の哀しみが自然に備わっている。「レコード歌手ではない、どちらかというと芸人的」。澤ノ井は純子の生い立ちを聞きながら、漠然とではあるが、自分に相通じるものを感じ取っていた。育った環境は異なるが、社会の底辺で通じ合うような生活感。同じ体臭のようなものが染みついている。と、品川の予感通りであった。
 「この子には何かがある、きっとうまくいく」澤ノ井は確信をもった。「この子は生き様そのものが歌なんだ。」一人でも多くの人間に純子の歌を聴かせたい。澤ノ井は自分で育て、売出すことを決意し、純子は澤ノ井の家に住込み、レッスンを受けることになった。

デビューめざして

 澤ノ井は思い立ったら行動は早い。さっそく、自分の所属する東芝レコードのディレクターに引合わせた。そこで歌った歌は津村謙の「上海帰りのリル」。ディレクターは興味は示したが、しかし、「一度、上条先生で断っているから義理が立たない」との理由で断られた。それならば、と澤ノ井は東芝と専属契約を打ちきり、フリーの立場で活動することにした。この世にゴマンといる、まだどうなるかわかりもしない歌手志望の少女。だが、澤ノ井は純子に感じた自分の直感と、持ち前の負けん気とチャレンジ精神が頭をもたげ、もう後戻りはできないところまで燃え上がっていた。
 次に澤ノ井と純子が向った先は日本コロムビアだった。芸能プロダクション「芸映」の紹介だが、しかし、ここは老舗中の老舗。そうそうたるスター群と専属作家が名を連ね、きっちりとラインが組まれている。そこに入り込むのは容易ではない。そこで、澤ノ井は新しく発足した外資系の「コロムビアデノン」に目をつけた。ここは、既成のスターや作家にとらわれない新しい志向を目指していて、わりとオープンな雰囲気である。純子は担当ディレクターの前で竹越ひろ子の「東京流れ者」を歌った。ディレクターも純子に何かを感じ、快く迎えいれてくれた。
 だが、「コロムビアデノン」はもともとポップス色の強いレーベルである。歌謡ポップス路線で勝負したいと考えていた「コロムビアデノン」と、純子のドラマ性を引出したい澤ノ井の思惑とはかなりの温度差があった。それに、プロデュースとマネージメントに徹するためと様々な兼合いから、デビュー曲の作詞をなかにし礼、作曲を猪俣公章でいくことになっていたのだが、こちらもなかなか思うようにははかどらない。「コロムビアデノン」そのものが立ち上げたばっかりで、一人の歌手にかまっていられないという事情もあったのだが、澤ノ井の苛立ちはつのるばかりであった。そして、ようやく出来上ってきた曲はタイトルが「鍵」(作詞:なかにし礼/作曲:猪俣公章)洗練された都会的な歌謡ポップスだ。「これは違う・・」。曲が悪いのではない。やり方が違うのだ。野良犬には野良犬のやり方がある。澤ノ井は「コロムビアデノン」を後にした。
 先輩作詞家である星野哲郎の助言もあり、デビュー曲は自分で作ることにした。「やはり純子を一番よく知る君でなければ書けないよ」澤ノ井は原点に戻り、自分をみつめ直す。まずペンネームを変えた。「石坂まさお」これは実在した人物の名前で、先輩作詞家宮川哲夫とシナリオ作家の井出雅人と共に詩人の三羽がらすと呼ばれていたが、太平洋戦争で戦死していた。

再挑戦

 澤ノ井は「石坂まさお」として再出発することを心に誓い旅に出た。さて、自分で作ろうと思ったものの、なかなか思うような詞が作れない。いわゆる生みの苦しみである。そんな折り、名古屋で旧友でもある作詞家みずの稔と会う。そこで見せられた一遍の詞が、まさに求めていた言葉だった。「バカだな バカだな だまされちゃって・・」みずのにこの詞を使用することを承諾してもらうと、後は一気呵成に出来上った。「新宿の女」の誕生である。(クレジットの作詞者にみずの稔氏の名前があるのはこういう事情から)
 思えば「新宿は俺の故郷ではないか・・」新宿は人間の吹き溜りのような街。純子の持つドラマ性を引出すインスピレーションには事欠かない。まさに原点に返ったところからはっきりと進むべき道が見えてきた。
 だが、デビュー曲だけではだめだ。2曲目、3曲目と続かなくては・・、石坂は新宿の雑踏の中を歩きながら案を練った。そして「女のブルース」「生命ぎりぎり」が出来上った。あとはレコード会社だ。
 実は、石坂まさおは「コロムビアデノン」の話が消えかかった頃に「日本ビクター」の事業部のひとつである「RCA」に挨拶をすませていた。「RCA」はクラシックや洋楽ポップス中心のレーベルであるが、昭和43年頃からは邦楽にも進出していた。ここで応対に出たディレクターの榎本襄が、その後の純子のデビューの大きな推進力となっていく。

ついにデビューが決る。

 石坂に純子を紹介された榎本もまた「何か」を感じた。出来上ったばかりの「新宿の女」はまさに純子の生き様そのものが歌になったようなものだ。端正な顔立ちの17歳の少女はギターを抱え、思いも寄らぬハスキーで凄味のある声で歌った。「これはスゴイ!」まさに新宿の街の呻きが迫ってくるような「情念」がある。それに「美少女の流し」というキャラクターも新鮮だ。「RCA」からのレコード・デビューが決まった。
 となると次は芸名だ。石坂は純子を本格的にプロモートするために「日本音楽放送(有線)」などの資金協力を得て自ら「藤プロダクション」を設立した。(社長は日本音楽放送の工藤宏氏)そこで工藤氏の「藤」と、工藤氏の妹である桂子にちなんで「藤圭子」に決まった。
 「これからはテレビを始めとするマスメディア的なイメージ戦略が必要だ。」石坂と榎本は協議を重ね、藤圭子の端正な顔立ちのわりに、痩せすぎの体型と大人の歌を歌うには色気が足りないことを補う為に、黒のベルベットのパンタロンスーツと対照的なコントラストの真っ白なギターを持たせて売り出すことにした。キャッチ・フレーズは「演歌の星を背負った宿命の少女」。こうして、藤圭子のデビュー曲「新宿の女」の発売日は9月25日に決まった。昭和44年の夏のことである。
 だが、「RCA」は新興のレーベル。思うような宣伝予算が確保できない。「それなら自分でやるだけさ」「野良犬には野良犬のやり方がある」。

伝説の「新宿25時間キャンペーン」


[デビュー曲]
新宿の女(昭和44年9月)JRT-1037
作詞:みずの稔・石坂まさを/作曲:石坂まさを
B面/「生命ぎりぎり」
作詞・作曲:石坂まさお
B面の「生命ぎりぎり」は最初、3弾目として用意していた曲「命ぎりぎり」。

[第2弾]
女のブルース(昭和45年2月)JRT-1057
作詞:石坂まさを/猪俣公章
B面/「あなた任せのブルース」
作詞:石坂まさを/作曲:森川登
「女のブルース」は詞があがった時は「花のブルース」だったが、藤圭子のキャラクターを考えて「女のブルース」になった。曲は幻のデビュー曲「鍵」の作者である猪俣公章に依頼。ここで義理を果した。
B面の作者、森川登は当時はまだ無名のピアニストで、藤圭子のボイストレーナーを担当していた。石坂まさおは当初、この森川登にチャンスを与えようと「女のブルース」を依頼したが、思うところあって変更した。

[第3弾]
圭子の夢は夜ひらく(昭和45年4月)JRT-1077
作詞:石坂まさを/作曲:曽根幸明/編曲:原田良一
B面/「東京流れ者」
作者不詳/作詞:石坂まさお
「圭子の夢は夜ひらく」は昭和41年(1966)11月に発売されてヒットした園まりの「夢は夜ひらく」のリメイクだが、このオリジナルの方も石坂まさおによるプロデュースであった。石坂まさおはこの曲が藤圭子によって生きるとひらめき、まだ前作のヒットから間がないと渋るRCAを説得、ファーストアルバムのB面1曲目ということで落着いた。「圭子の夢は夜ひらく」は昭和45年3月発売の初のLP「新宿の女/演歌の星、藤圭子のすべて」のB面1曲目に収録。4月に第3弾としてシングルカット、大ヒットした。


[番外コラム]その1
「圭子の夢は夜ひらく」の編曲を担当した原田良一は、終戦直後からハワイアン、ジャズ、カントリー&ウェスタン、ロカビリーと日本のポップスシーンを生き抜いてきたギタリストで、エレキブームの頃にはザ・スペイスメンのリード・ギターとして、ビクターから15枚のエレキインストアルバムをリリースしている。ザ・スペイスメンは、橋幸夫の一連のリズム歌謡にも深くかかわり、「チェッ、チェッ、チェッ」ではバッキングも担当した。イントロのエレキ・ギターとのかけあいにそれらしさを彷彿とさせる。

[番外コラム]その2
オリジナルの「夢は夜ひらく」(昭和41年11月/作詞:中村泰士・富田清吾/作曲:曽根幸明)作詞の中村泰士はロカビリー全盛時代に、ホリプロの前身「東洋企画」で美川鯛二の名でロック・ブラザーズというバンドを率いる人気者だった。その美川鯛二のレコードデビュー曲「野良犬のブルース」はまた、澤ノ井千江児(石坂まさお)のプロ作詞家としてのデビュー曲でもあった。作曲は原田良一が在籍していた頃のスイング・ウエストのピアニスト新井利昌。また、美川鯛二の2曲目もこのコンビによる「赤いヨットは死んでいた」。そして、3曲目はこんどは原田良一が作曲した「街の灯よ消えないでくれ」。しかし、いずれも売行きは芳しくなかった。だが、売れなかったことで結果的には作曲家に転身するきっかけとなったのかも知れない。美川鯛二に対して申し訳ない気持を抱いた澤ノ井は、美川の曲に詞をつけ東芝にかけあい、作曲家としての道を開くきっかけをつくった。曲のタイトルは「恋苦労(ぐろう)」水原弘によってレコーディングされた。作曲家中村泰士のデビューである。

[参考文献]●大下英治著「心歌百八つ」●スポーツニッポン●シンコーミュージック・ムック

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