「名古屋のジャズ喫茶に歌のうまい少年がいる」週間明星の記者からこの話しを聞いたのは、当時、まだ新興芸能プロダクションのひとつに過ぎなかった「堀プロダクション」(現ホリプロ)社長の堀威夫だった。看板スターが守屋浩一人だけという会社の事情から、新しいスターの構想を練っていた堀はすぐに名古屋に飛んだ。少年の名前は上田成幸。のちの舟木一夫である。
会ってみると、とにかく無口でひかえめ、線の細い少年という印象だったが、堀はそれでも、その奥に潜むスター性を直感したという。「とにかくテープを送ってくれ」そういってその場は別れたが、東京の事務所に送ってきたテープを聴いて堀は改めて確信した。曲は松島アキラの「湖愁」。まだカラオケなどない時代。上田少年は、まず前奏の部分をレコードから録音し、続いて1番の歌の部分を無伴奏で吹込み、さらに間奏をまたレコードから録音、続いて2番を無伴奏で吹込むという手法でテープを作っていた。堀は歌のうまさはもちろんの事、この几帳面さに惚れ込んだ。そうやってつぎはぎ録音にもかかわらず、最初から最後までリズムが一定だったのだ。
●賛否両論あった「高校三年生」
昭和37年4月、上田少年は故郷の愛知県から上京し、四谷のアパートで共同生活が始まる。デビューはコロムビアからと決まり、高校卒業まで専属作曲家の遠藤実のもとでレッスンを受け、曲も遠藤実が書くことになった。授業が終ると赤坂の事務所に顔を出し、のちにマネージャーとなる佐々木國雄に連れられて、荻窪の遠藤宅まで通った。その当時、遠藤の家には一節太郎が住込んでいたり、笹みどりが静岡からレッスンに通ってきたりしていた。
昭和38年6月、デビュー曲は「高校三年生」に決る。しかし、決定までにはコロムビア社内では紆余曲折があった。この当時は都会派ムード歌謡やポップスの全盛。股旅演歌から脱皮しつつあった橋幸夫の「明日を呼ぶ港」や「若いやつ」など青春歌謡と呼べるものはあったものの、まだブームとはなりえていなかった。それに曲の内容が文字通り「高校」を舞台としていたので「幼すぎる」「唱歌的」などの意見があったようである。それにしては、この曲を岡本敦郎に歌わせようという意見もあったらしいから相当に迷ったことがうかがえる。しかし、遠藤実の強い希望で結局、この曲に落着き、芸名も橋幸夫用にあたためていた「舟木一夫」に決った。
発売してみると、そんな苦悩もいっぺんに吹飛ぶほどの大ヒットとなり、その年のうちに100万枚を突破、年末の第5回日本レコード大賞新人賞も受賞。対象曲は「高校三年生」と「学園広場」2曲。尚「高校三年生」は作詞賞も受賞。ちなみにこの年の女性新人賞は三沢あけみ「島のブルース」。大賞は梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」だった。
その後も「修学旅行」「学園広場」「仲間たち」「ああ青春の胸の血は」と、いわゆる「学園モノ」で立て続けにヒットを連発。学園青春歌謡のジャンルを切開いた。
つづく
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