文・編集/松王謡一(NORA)
text&direction by YOUICHI MATSUO

 60年代に思春期を送った世代の多くの人にとっては、まさに「胸キュン」ものの歌の数々。想いを寄せたあの娘の机の引き出しにそっと偲ばせたラブレター。のハズが舞い上がって隣の机に・・。運動会のフォーク・ダンスでようやく彼の所へ回ってきたと思ったら曲が終り・・。まるで時代そのものが青春しているような気がしていたあの頃・・。
「青春歌謡」。そのメロディーを聞けば心のときめきとともに蘇る想い出、昭和を、そして歌謡曲を語る上ではずせないジャンルである。
 総体的に歌謡曲は、というか日本の旋律というのは、マイナーコードを多用した比較的ウェットなものが多く、日本人の好みでもある。だが、センチメンタルではあるがけっして「暗い」ばかりではない。もちろん曲にもよるのだが、その中にあって青春歌謡と呼ばれる部類は多分にメジャーコードを多く含み、明るい曲調でリズミカルなものが多いのが特徴。これにセブンスコードが加わってくると、歌謡ポップスの領域と重なってくるのだが、どのジャンルにしても、学術的に明確な線引きとを試みるとややこしいし、またその必要もない。聞く人が自分なりに「青春」を感じればそれが「青春歌謡」であろう。
ここで述べる「青春歌謡」とは、昭和30年代後半から40年代にかけて一大ブームとなった一連の歌の事を言う。そして、それはやはり「御三家」が中心にならざるを得ない。

御三家の時代

 昭和39年(1964)西郷輝彦が登場。あっという間にスターダムを駆け上り、先にデビューしていた橋幸夫、舟木一夫と合わせて「御三家」が出揃うことになる。実は西郷輝彦よりも一足早い昭和38年(1963)10月にデビューし、やはり圧倒的な人気を得ていた三田明を加えて「歌謡界の四天王」と呼ばれていた時期もあったが、ビクターが二人いるのはちょっと・・という声もあったりして、いつしか「御三家」に落ち着いた。
 着物姿の股旅演歌でデビューし、しばらくはそのイメージで通していた橋幸夫が、昭和37年に「江梨子」を歌と映画両方で大ヒットさせた。それまでも昭和36年5月の山中みゆきとのデュエット「若い素顔」や同年9月の「明日を呼ぶ港」など単発の青春物はあったのだが、まだブーム前夜であったと言える。「江梨子」のヒットに続き、テレビドラマ「若いやつ」が主題歌とともにヒット、B面の「大学の青春」と合わせて両面ヒットとなった。股旅・時代物から現代青春物へのイメージチェンジを図っていた時期である。そして同じ頃、昭和36年に「湖愁」でデビュー、ヒットさせていた松島アキラがいる。松島アキラは昭和37年にも「あゝ青春に花よ咲け」をヒットさせて、やや地味ではあるが青春歌謡路線を歩いていた。さらに、ロカビリーから転向してきた北原謙二も昭和36年の「日暮の小径」「忘れないさ」37年の「若いふたり」などが立て続けにヒット、それに加えて、以前から、「僕はないちっち」「長いおさげ髪」などのヒット曲を出していた、同じくロカビリー出身の守屋浩がすでに中堅歌手として存在している。

 一方で爆発的なブームだったのが、カバーポップスであり、その中心は続々とデビューしていたティーンズ歌手であった。その原動力となったのは他ならぬ「テレビ」である。昭和34年、時の皇太子(現天皇)のご成婚は生中継され、これを機にテレビ受像器は一気に普及していった。そして、それまで映画でしか見れなかったスターの「動く映像」はテレビによってより身近になっていく。茶の間にいながら憧れの歌手が歌う姿が見れる。「ザ・ヒット・パレード」や「シャボン玉ホリデー」の中で歌い、踊る、そしてコントもこなす、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりの三人娘をはじめとする多くのポップス歌手は、「テレビ」という新しい時代のエンターティメントに見事に乗っかっていった。それは若者達が、それまでの与えられる音楽から、自分達で音楽を見つけ育てる「主張」を始めた時期でもあると言える。
 そういった背景の中で様々な要素が重なり合い、まさに「機」は熟した時に登場したのが、昭和38年舟木一夫「高校三年生」である。「一週間のご無沙汰でした」のキャッチフレーズと、弁舌爽やかなな司会で人気のあった玉置宏の「ロッテ歌のアルバム」に初登場するや、あっという間に大ヒット。この1曲によって歌謡界は一気に青春、とりわけ学園ソング一色に染まってしまう。そして「御三家」を中心に青春歌謡ブームは隆盛をきわめ、各レコード会社は競って後に続く若い歌手をデビューさせる事に奔走し、あるいは吉永小百合、本間千代子、山内賢などの若手映画スターなどをこのブームに参入させていった。
 ここまでブームとして盛り上がったのには、優れた楽曲やスターの登場ももちろんだが、社会的な要因として右肩上がりの高度経済成長の真っ只中で、人々が夢や希望を謳歌できた時代でもあり、そのうえで、メディアが大きな力となったことはいなめない。総合芸能誌として情報源であった「平凡」「明星」、そして映画。それに「テレビ」が加わった。テレビには、映画にはないリアルなバラエティ性と、雑誌よりも早いスピードがある。「平凡」「明星」のひとつの看板でもあった「絵小説」。そこから歌が生れ、映画化されていく。あるいはその逆パターン。そして、テレビの歌番組やバラエティ番組が増えるごとに露出度を増すスター達。それぞれの企画は互いにクロスオーバーし、リンクし、「四味一体」となってブームを増幅させていく。その伝播エネルギーは、つい数年前までは想像もつかない程大きく、そして早かった。それは、その後のエレキ、それに続くGS・フォークにおいても同様であり、まさにブームがブームを呼んでいく時代となった。

 「青春」とひとくちにいっても、そのシチュエーションはさまざまであり、例えば、橋幸夫の場合は年齢的にも大学生・社会人の青春。舟木一夫、西郷輝彦、三田明、またその後に続く歌手などは、ほとんどが十代であったから、高校生の青春が守備範囲といえる。そして学園や高原、海や街を舞台に展開するのである。
考えてみれば御三家の全盛期がそのままここでいう「青春歌謡」の全盛期だったとも思える。この期間にデビューした、特に十代の歌手が歌うのは、そのほとんどが青春歌謡と呼べるもので。なんといっても彼等自身が青春の真っ只中であったわけであり、そのリアルさが、同世代の若者達にとって時間と空間を共有できる等身大の世界だったといえる。
 しかし、人間は歳をとる。残念ながら・・、彼等もファンも大人になっていくわけで。彼等が大人の歌手への変革期を迎えるころ、GSやフォークが台頭してくるようになる。歌謡曲は様々な音楽と融合しながら多様化していき、「青春歌謡」も、それまでの純和風の唱歌的・寮歌的なものから、よりポップなソフィスティケートされたものへと変化していった。その流れは加山雄三や荒木一郎などのシンガーソングライターを生み出し、専属制や徒弟制度が色濃く残っていた作家と歌手の関係をも崩壊させてしまう程の、二次的エネルギーとなった。さらに、融合分裂を繰りかえしながらニューミュージックへと発展していく。
 一方で、テレビはますますその影響力を増し、近寄りがたいスター性よりも、親近感、ルックスが求められるようになった。奥村チヨや中村晃子などのガールズ・ポップを経て、恵とも子やピンキーとキラーズなどのアイドル歌謡の時代が到来する。そしてテレビの青春ドラマからは布施明の歌う一連の主題歌「若い明日/貴様と俺」「これが青春だ」や森田健作「さらば涙と言おう」が生れ、70年代の中村雅俊へと連綿と続いていくことになる。
ここでいう「青春歌謡ブーム」とはこの昭和41〜2年あたりが終焉の境目であり、今振り返るとその最も輝いた期間はわずか2年足らず。前後を足しても約5年ほどであろうか、ただ、重要なのは時間の長さではなく「どれだけ深く心に刻み込まれたか」であり、ブームというものはエレキにしろGSにしろ時間的には大体そんなものである。

御三家以前の青春歌謡

 学術的なことはわからないが、「青春歌謡」と呼べるものは戦前にも戦中にもあった。古賀政男や古関裕而なども数多くの歌を残している。あるいは、唱歌や寮歌もある意味で「青春歌謡」であろう。ただ、その時代にジャンルとしての「青春歌謡」は確立していなかったし、ましてブームとは言い難い。私にとっての青春歌謡のルーツは藤山一郎・奈良光枝「青い山脈」(昭和24年)であるが、そのメロディ、詞ともに、その後の青春歌謡の原型と言えるだろう。セオリー?通り、映画ともリンクしていて、スタンダードとして長く愛されてきた。。その他にも灰田勝彦「アルプスの牧場」(昭和26年)、岡本敦郎「高原列車は行く」(昭和29年)、小坂一也「青春サイクリング」なども本質的には青春歌謡といえるし、あるいは美空ひばりや島倉千代子などもその数多いレパートリーには青春歌謡も含まれている。探せばもっとあるかも知れないが、ただ彼等の歌のジャンルは幅広く、青春歌謡として独立して語られることはなかっただけの事だ。いずれにしても歌謡界を挙げて世の中を巻込むほどの、いわゆる「ブーム」となると、やはり御三家の出現を待たなければならなかった。同時期に青春時代を過せた私は幸せ者だ。

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