「無国籍映画」とは、昭和30年代に全盛を誇った一連の「日活アクション映画」に対してよく使われる言葉である。多くは好意的に表現されているが、中には批判的な、いや、もっと醜く、揶揄するかあるいは茶化している記事を時折り見かける。そしてその矛先は各社の「歌謡映画」や「青春映画」に及ぶこともある。それも、書いているのが、その時代にはまだ幼児だった。あるいは生れていないはずの世代の人間だったりするから不思議である。
まあ、結論から言えば「無国籍」で何が悪い!」と言いたいのだが、たしかに、「日活アクション映画」は当時人気だったアメリカの西部劇やギャング映画を下敷にしていることは今さら言うまでもない。誰でも知っていたことだ。特に「渡り鳥シリーズ」はアメリカのヒット映画「シェーン」を意識して撮られている。だが、シチュエーションはどうあれ、そこに映っているのはどこからどう見ても、まぎれもなく日本であり日本人ではないか。その根底にある、渡世人、旅鴉といった伝統的な日本のアウトロー。描かれているのは、いかにも日本的な「土着性」「義理・人情」であることを見逃してはならない。
だいたい「エンターティメント」にこざかしい理屈などいらないのだ。観て楽しければそれでいいではないか、感動して涙を流し、笑い、怒り、スリルにドキドキする。素直に反応すればいいのである。不条理だろうがつじつまが合わないだろうが、もともと「フィクション」なんだから、重箱のスミを突っつくような批判は見苦しい。真実が観たければノン・フィクション、ドキュメントを観ればいいのである。
考えてみれば映画に「国籍」というのもおかしな話だ。では逆にアメリカ西部劇の「荒野の七人」はどうする。ベースは黒沢明「七人の侍」ではないか。世界的なSFの名作「スター・ウォーズ」はどうする。同じく「隠し砦の三悪人」ではないか、「ロボ・コップ」は「8(エイト)・マン」なのだ。またアメリカ西部劇をそのまんままるごとスペインで撮ったイタリア映画、いわゆる「マカロニ・ウェスタン」がブームになった事もある。それでいいではないか。
そもそも、過ぎ去ってしまった事を後であれこれ言うのは簡単だ。映画に限らず、歌謡曲でもニュースでも、語るならその時代背景を無視してはいけない。「その時」に同じ事を言っていたのなら「意見」としては聞くが、時間が経つごとに資料や情報はよけいなモノがくっついて膨らんでいくし、現在の思い込みや先入観が混じり合った年とった頭で考えるのと、若い時に感じたことは違うハズだからだ。
昭和30年代というとすでに高度経済成長がはじまっていたが、まだまだ多くの国民は貧しく、庶民にとってはその日の暮らしむきが大事で、価値観もそこにある空気も今とは違う。エンターティメントに求めるものも当然違う。今の感覚で見ればミスマッチや違和感は当たり前ではないか。どんなに批判しようが笑おうが、日本中でブームを巻き起し、多くの人々が拍手喝采を送った事実を否定することはできないだろう。
ある意味「なんでもあり」の時代で、少々やり過ぎたかも知れないが、それがダイナミズムとなり、いろんなものが登場して、柔軟に受入れて、しかし、当時の人間とてバカではない。ちゃんと取捨選択はしていたのだ。だいたい、わざわざ映画館まで足運んで、カネ払って入場した一般庶民が、いちいちああだこうだと評論しながら観るものか。そんなのは偉そうな評論家にまかせておけばいいのである。みんな心の片隅ではわかってたのさ、わかった上で目の前の空想冒険活劇を素直に楽しんだのだ。それが「娯楽」だから。大人だねえ・・。くやしかったら自分の力でそれ以上のブームを巻き起してみることだ。
駄菓子屋・貸本屋・銀玉鉄砲・ブリキのおもちゃ・粉末ジュースなどなど、その時代だからこそ輝いた。スッチーよりバスガイドに憧れ、公務員よりは大工の方が偉かったのだ。霧の波止場にマドロス。りんどう峠を越え、小島通いの郵便船に乗る。こんなシチュエーションも、その時代に暮す多くの人々にとってはそれでよかった。そして心の底から喝采を送った。
今われわれが暮しているこの時代も、30年先、50年先の人間が見ればおかしいと思うことはいっぱいあるだろう。それが時代。
時代は回るのである。
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