屁理屈はいらない。自由奔放!奇想天外!縦横無尽!気分爽快!ボラーレ!キレがあるのにコクがある(笑)のである。なんの遠慮がいるものか、どだい、あの時代に(今もそうだが・・)節操なんてあったのか。いったいどれほどの人間がモラルを守っている?もちろん現実にやっちゃいけないが、しょせんフィクションの世界の話だ。実態の伴わない妙な中流意識の軟弱おぼっちゃま思想にはケリ入れて、性根をすえて観ようではないか。
時は昭和30年代、日本は暗くて寒かった。娯楽といえば映画かパチンコ。だが、家族でということになると映画である。街の盛り場には競うように映画館が軒を並べ、事前情報の乏しい中、人々は色鮮やかな手書きのデカイ看板を眺めて期待に胸ふくらませていたのだ。
東映の時代劇、松竹のホームドラマ、東宝の特撮、それぞれが独自色を競っていたが、中でも若者に圧倒的人気だったのが「日活アクション」である。波止場のキャバレーや山あいの牧場を舞台に分りやすい勧善懲悪。アクションあり、恋あり、歌あり、そこには独特の日活ワールドがあった。そしてその中にはカッコイイヒーロー達がいた。タフガイ裕次郎、マイトガイ旭、そしてトニー・・。胴長短足と言われていた日本人の中にあって、彼等はいずれもスラリとした長身で颯爽とスクリーンを駆抜けたのだ。同時に「歌う映画スター」としてほとんどの主題歌を歌い、歌謡曲の世界でも数多くのヒットを飛ばしていた。
当時、それまでの日活は後発だったこともあるが、邦画6社のなかでは興業成績でいつも最下位争いをしているような会社だった。そんな日活だったからこそ、それまでの悪しきしがらみにとらわれない、わりと「自由」な映画作りができる土壌があったともいえる。いや、そうしなければならなかった。専属の大スターがいるわけでもないし、だから無名だがイキのいい若手俳優や作家を積極的に起用していったのだが、当時全盛だった東映時代劇の後を追っかけてもしょうがないし、「非常識は日活の常識」自由な映画作りは、独自のストーリー展開と、まばゆいばかりの世界を築き上げていった。
それまで「映画スター」と言えば、細面の絵に描いたような美男美女が相場であったが、それを「150トン」のダイナマイトでぶっ飛ばしたのが、「日活アクション」であり、そこから飛びだしたヒーローは「反社会」「反モラル」だが、一本スジの通ったわりと明るいアウトロー。すぐ近くにいそうな、しかし決してマネできない、カッコいい「お兄ちゃん」達は一躍「若者のスター」となった。そして、赤字続きだった日活はこの現代アクション路線によって息を吹返したのだ。
その口火を切ったのはもちろん石原裕次郎だが、昭和31年(1956)1月、一橋大学生だった裕次郎の兄、石原慎太郎(現東京都知事)が第34回芥川賞を受賞する。その作品が「太陽の季節」であり、これが裕次郎の映画デビューのきっかけとなった。
一般的に裕次郎は兄の作品であるこの「太陽の季節」の撮影現場を見に来ていてスカウトされた。とされているが、実のところは多少ニュアンスが違う。弟の暴れん坊ぶりに手を焼いていた兄、慎太郎が、受賞記念パーティーで居合せた日活のプロデューサー水の江滝子に会わせた。そのスター性に一発で惚れ込んだ水の江滝子が「太陽の季節」映画化にあたって兄の顔を立てる意味でも、裕次郎の起用を会社とかけあった。というのが真相である。だが、素人を起用することに対する社内の反発は強かった。そこでバリバリの湘南ボーイで「太陽の季節」で描かれている太陽族そのものの裕次郎は「太陽族の言語指導」という肩書きでスタッフに入り込んだのである。そしてチョイ役ながら、俄然、注目を浴び、その後一気に大スターへ登り詰めたのはご存じの通り。
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