「君は政治のために死ねるか・・」。降りしきる雨の中、頭に血染めのタオルを巻いた学生風の若者は誰に言うともなくつぶやいていた。あるいは自問自答していたのか、続いてその後、唇を震わせながら歌いだした。

アカシヤの雨に打たれて
このまま死んでしまいたい・・・

 昭和35年6月16日、前日から夜を徹して行われた国会周辺でのデモの最中の出来事である。彼の言葉とその歌は、前日の15日にデモ隊が国会構内に突入した際、警官隊との衝突による混乱のさなかに死亡した樺(かんば)美智子に捧げられたレクイエムだったのであろうか・・。
 ひとりの若者の死。それが時代と政治によってもたらされたものであるとすれば、真っ先に思い浮ぶ名前。それは樺美智子である。「60年安保の象徴」として、彼女の死は、西田佐知子の歌う「アカシアの雨がやむとき」と重なって、当時の学生たちの心象から消えることはないだろう。

燃やした青春は時代の光かそれとも陰か・・

 国が貧しい時、人々の政治への関心はそれなりに維持されてはいるが、物質的、経済的に多少のゆとりを持つようになると、その欲求は娯楽や快楽へと向い、政治離れが顕著になっていく。洋の東西を問わず、それが民衆心理というものである。
 日本の一番熱い時代「60年代」は、戦後の荒廃と貧しさから復興し、高度経済成長の上げ潮に乗った時期と重なる10年間である。その60年代のスタート、昭和35年は「安保」によって幕が開いた。おそらく日本国民が最も激しく政治にかかわった年であろう。その中心となったのが全学連による学生運動と労働組合であり、大衆はそれを後押しした。若いエネルギーは様々な思惑をひとつに飲み込んで、時の政治権力に立ち向っていったのだ。
 俗に言う安保、「60年安保問題」は、昭和26年、「サンフランシスコ講和条約」とセットで締結された日米安全保障条約の改定に対する、学生を中心とした反対運動が引金となり、「日米地位協定」問題、あるいは、安保条約締結時の東条内閣閣僚であった岸信介が、今、改定を行おうとしている総理大臣であること。などが国民の反発を買い、まさに国論を二分するほどの大問題へと発展したものだ。
 昭和35年(1960)1月19日、新安保条約はワシントンで調印され、後は国会の批准を待つばかりとなった。2月5日、日本政府は新安保条約を衆議院に提出、衆院安保特別委が設けられ国会論議がはじまる。「極東の平和維持」の大義名分のもと、米軍が日本国内に基地を置くことができるという規定。そして、この「極東」の範囲に関する定義に対し、また東西冷戦が深刻化するなか、日本が紛争に加担、あるいは巻き込まれる危険性があることから、前年から反対の姿勢を打ち出していた野党の激しい抵抗に国会は大混乱に陥り、3月25日、政府自民党はついに単独審議に踏み切った。
 遡ること昭和26年(1951)9月8日。占領集結、日本の独立回復のための「講和条約」がサンフランシスコに於いて調印された。同時に「日米安全保障条約」(旧安保)も調印された。戦後7年間に渡る占領から独立を取りもどす代償として、日本は「西側」に組み込まれ、米軍への協力を負わされることを含めての、セットでの条約締結だったのだ。
 この日米安全保障条約の改定に関する日米間の合意が得られたのは昭和33年9月、藤山外相とダレス国務長官によってである。これに対して、安保条約廃棄を打ち出した社会党に同調するかたちで、昭和34年3月、総評系の革新勢力135団体によって「安保改定阻止国民会議」が結成され、以後反対運動を続けてきた。しかし、この時点において一般国民の反応は冷めたものだった。昭和34年8月の毎日新聞による世論調査では、改定賛成28%、反対19%に対し、「わからない」が40%を占めた。昭和35年、新安保条約が国会に提出された後の3月の世論調査でも、賛成34%、反対28%、「わからない」は依然として30%を超えている。ところが、自民党が単独審議に入ったことから、強行採決の動きを察知した学生と労組の反対デモが激しくなり、4月26日、第15次統一行動は全国35都道府県、150カ所で25万人を集めた。そのうち国会前に座り込んだ全学連6000人と警官隊が衝突、負傷者28人、17人が検挙されるという事態となった。5月14日に国民会議が10万人の国会嘆願デモ、江田社会党書記長が1350万通にものぼる安保反対署名を清瀬衆院議長に提出。この頃から反対世論は急激に盛上がりを見せ始め、5月19日を迎えた。

長い長い嵐の一ヶ月

 5月19日、強行採決を阻止せんと、夕刻から国会周辺を取り囲んだ学生と労働者2万人が「安保反対」を叫び続ける中、衆院安保特別委は清瀬衆院議長が警官500人を動員、座り込んだ社会党議員を排除して本会議を開会。深夜、野党欠席のうちに自民党は単独で50日の会期延長を強行採決。さらに、翌20日へと日付が変ろうとする午前0時6分、新安保条約協定を強行採決。夜を徹して叫び続けたデモ隊は翌朝、降りしきる雨の中、その規模は10万人に膨れあがっていた。
 憲法上、条約は衆議院を通過すれば1ヶ月後には自然成立する。だからこそ自民党は国民の反対を覚悟で強行採決したのだ。もはや、いくらデモをしても、どんなに叫んでも、1ヶ月後には新安保条約は成立してしまう。だが、青春の真っ只中にある若い息吹きはじっとしていられなない。「右も左もない」、「何かをしなければ・・」若者たちは魂の奥底から沸き上がる衝動に駆り立てられていった。
 そして、この日を境にに国内情勢は一変する。それまでは永田町界隈の騒動程度だったのが、一気に全国規模のうねりとなった。「このままでは民主主義は死んでしまう」。国民の不安と怒りは最高潮に達し、日本はまるで革命前夜のような騒然とした空気に包まれ、戦後最大の大衆政治運動へと突っ走っていくことになる。
 5月21日、毎日、朝日の両新聞は「岸内閣総辞職・衆院解散」の社説を発表。5月26日に抗議のデモ隊17万人が国会を包囲した。6月4日、国民会議の呼びかけにより第一次実力行使、総評、中立労連、全学連など全国で560万人が参加、全国商工連傘下約2万店が閉店ストライキ。国会周辺には12万人のデモ隊が押し寄せた。そして6月15日、第二次実力行使が決行された。

「運命の日」

 6月15日。この日も国会周辺には12万人の学生や労働者が集っていた。学生運動とはいっても、70年安保の時と違い、この当時はまだ闘争スタイルは確立してはいない。服装も一般学生とほとんど見分けがつかず、ヘルメットも角材もない。投石も用意されたものではなく、苦し紛れにそこいらのブロックを剥がして投げる程度のものであった。
 学生デモ隊は通用門で警官隊と真正面から対峙していた。国会警備というのは各門入口付近のみで、実はそれ以外の場所はガラ空きだった。だが、学生達はそこを狙わなかった。正々堂々、正面突破を図ったのだ。そして警官隊もまた、通常の制服にヘルメット、いわゆる「機動隊」の戦闘服ではない。そこは互いに暗黙の了解ができていた。人間がまだ人間らしい、そういう時代であったのだ。だが、異様な状況に置かれれば精神は高揚する、それが群集心理というものだろう。そして悲劇は起こった。そういう時代だからこそ、それはひときわ鮮烈だった。
 午後5時10分、監視行動を行っていた賛成派の右翼350名のうち、120名の維新行動隊がトラックに分乗して国会へ到着、参院第2通用門で座り込みをしていたデモ隊へ角棒を振りかざしながら殴り込み、一般参加の劇団女優など数十名が負傷。これを皮切りに各所に陣取ったデモ隊が行動を起こした。
 国民会議5万人はすでに解散していたが、残った全学連は主流派が9400人、反主流派9670人、主流派は国会を一周した後、午後5時30分、南通用門から構内突入を図り、輸送車をバリケードにしていた警官隊と衝突。全学連はこの輸送車をロープで構外に引きずり出し、いよいよ緊迫度は増していく。その後、南通用門には学生を中心としたデモ隊が続々と集結してきた。警官隊はこれを鉄棒と放水で防御、そして午後6時16分、この日最大の衝突が始まった。
 午後6時30分、学生たちはついに構内へとなだれこんだ。午後7時頃、包囲していた警官隊が警棒で実力行使、大乱闘へと発展、そしてこの混乱の中、東大生、樺美智子が死亡した。「女子大生が死んだ」というニュースはあっという間に現場をかけめぐり、学生たちはいったん引いたあと、再び構内へ突入、警官隊が包囲するなか、抗議集会を開き、1分間の黙祷を捧げた。その後も各所でこぜり合いや放火を繰り返しながら夜明けを迎えた。

夜が明ける 日が昇る
朝の光のその中で
冷たくなった私をみつけて
あの人は涙を流してくれるでしょうか

学生風の若者の自問自答は続いていた。
「俺たちは負けたのか・・・」
「俺たちは勝ち負けを決めるために来たんじゃない。暴力団じゃないんだ、進歩的文化人だからね。」
別な学生が自嘲気味に笑いながら呟いた。
その学生が残したメモがここにある。
「一人の学生の死、そして負傷した俺たちのことは、ほんの数行の記事で終るだろう。やがてこの事件も忘れ去られるかも知れない。だが、ここにいる俺たち一人一人の人生にとっては大きな出来事だ。そしてその一人一人がこれから歴史をつくっていくんだ。10年後の70年にはまた後輩たちが行動を起こすだろう。そして80年安保、90年安保と繰返し、21世紀になった頃にようやく証明できるんじゃないか。うん、それくらいはかかるさ・・・」
雨はまだ降り続いていた。

アカシヤの雨に泣いてる
切ない胸はわかるまい

6月15日、一人死亡、負傷者1000人以上、入院482人、検挙187人

 その後も連日連夜、抗議デモは続き、6月18日には東大にて樺美智子の合同慰霊祭が行われ、そのまま国会までデモ、国会周辺には33万人が集結、これまでの最高を記録した。翌19日、怒号が飛びかう中、午前0時をもって条約は自然承認。国論を二分した「安保闘争」は終りを告げた。

6月24日、樺美智子国民葬が日比谷公会堂でしめやかに行われた。

アカシヤの雨がやむ時
青空さして鳩がとぶ

 7月15日岸内閣総辞職。7月19日、「所得倍増論」を掲げる池田新内閣が誕生すると、悪夢のような騒乱は潮が引くように終息していった。


NORAのはみだし語録」

 私は70年安保の時ちょうど20歳、ちっぽけなローカル新聞社に勤務し、かけ出しのイラストレーター兼ライターをやっていた。人手不足でほとんどの社員が掛持ちで二役をやっているような会社だが、その時に「安保特集」をやり、私は10年前の、つまり60年安保の時にデモに参加した学生数人に取材をし、その時に直接聞いた話や彼等の日記帳を参考にして記事を書いた。

[中略] テレビなどで60年安保の記録映像が映し出されると、必ずといっていいほどバックに流れるのが「アカシアの雨がやむとき」であり、またその逆もしかり、だが、その時デモに参加した数人の証言では、現場で全員が大合唱したわけではなさそうだ。また、この歌の内容も安保とは直接の関連性はない。いつ、どこでつながったのだろうか。私は「アカシアの雨がやむとき」をじっくりと聞いてみた。西田佐知子のけだるいハスキーボイスとその歌詞の内容は、挫折感とむなしさに包まれた疲れた体には不思議に合う。ましてや一人の仲間が死んだのであるからなおさら胸に染みたかも知れない。その心情を表すのにはこれ以上の歌はないであろう。
 現場には数万人がいた。「誰かが歌っていたのは聞こえた」「数人のグループが歌っていた」という別な証言がある。現場の状況からして自然に口をついて出たであろうことは想像にかたくない。この歌にはその力がある。その後、学生たちの間で歌い継がれていったというのは紛れもない事実だ。

という記事が残っている。

 時は流れて21世紀。日本は相変らずの自民党政権。そして今また自衛隊の海外派遣が強行採決された。何も変っちゃいない・・。「あの日」から幾星霜、変ったのは国民の意識だけなのか、もはや、沸き上がるエネルギーは今はもうない。
 あの学生風の若者はその後、幸せな結婚をしたのだろうか、子供を育てあげ、孫でも抱いているのだろうか、そして、今のこの日本をどういう気持ちで眺めているのであろうか。もし、会えたら聞いてみたい。
「あなたのつくった歴史は証明できましたか?あの熱い想いは、今もその胸に灯していますか・・?」と。

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●PHOTO:ポリドールレコード

「アカシアの雨がやむとき」オリジナルレコードジャケット。B面は原田信夫「夜霧のテレビ塔」。この当時、人気が出る前はAB面違う歌手とのカップリングは結構多かった。

●PHOTO:ポリドールレコード

発売当初、売行きはパッとしなかったが、学生たちの間で歌われるようになる頃から売れ始め大ヒットとなった。こちらは再プレス盤のジャケット

PHOTO:共同通信社

5月19日深夜、自民党は新安保条約承認の強行採決を行った。

PHOTO:毎日新聞社

6月15日午後5時半頃、全学連主流派は南通用門から構内突入を図る。

PHOTO:毎日新聞社

悪夢の一夜が明けた6月16日、降りしきる雨の中、国会議事堂を包囲しての抗議デモ。

プロフィール

PHOTO:近代映画社

西田佐知子
●生年月日:昭和14年1月9日生
●出身地:大阪府

昭和29年、大阪から上京、作曲家豊田一雄に師事し、31年に西田佐智子の名で歌手デビュー。しかし、なかなかヒットに恵まれず、途中芸名を浪花けい子に変更したりしたが、34年11月、レコード会社をグラモフォン(ポリドール)に移籍し、名前も西田佐知子に変えて「夜がせつない」で再デビュー。36年にカバー曲「コーヒー・ルンバ」がヒットしてようやく人気を得、その後はコンスタントにヒットを飛ばした。そのキャラクターのせいか、ヒット曲が多いわりには、メディアにとりあげられることは少ないが、どちらかというと玄人ウケするタイプで、実はプロ・ミュージシャンの中で彼女の歌は評価が高い。

樺美智子
中央大学教授を父にもち、昭和12年3人兄妹の末っ子として東京に生まれた。芦屋中学、神戸高校といずれも主席で卒業した才媛で、東大に入学後全学連主流派のブントの一員として活動を始めた。学生運動家というよりは、学業と学生運動との間で揺れ続け、今をひたむきに生きた青春だった。
遺稿集「人しれず微笑まん」

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