●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●PHOTO:平凡/キング・レコード

 まだカラオケなどない時代、「お富さん」の明るく小気味よいテンポは、手拍子だけで歌えるということもあって、会社帰りの一杯飲み屋、酒宴の席では必ずといっていいほど歌われ、「宴会ソング」の定番として広く庶民に浸透していった。そして、その勢いは子ども達にも波及し、「♪いきなくろべい〜 みこしのまあ〜つに」と意味もわからず歌っていたものだ。このことは、その歌詞の内容から「子どもが歌うには問題がある」として、教育委員会やPTAから異論があがり、小学生が歌う事を禁止する自治体も出るなどちょっとした社会問題にまで発展した。もっとも、子ども達にとっては意味などわかるはずもなく、いや、大人でさえも、この歌舞伎を題材に求めた歌は歌舞伎ファンでない限りは理解できなかったであろう。とにもかくにも、作曲者の渡久地政信氏は「みんなで楽しく飲んで歌える歌をつくりたかった」と述懐しているので、その狙いは見事的中したのであるが、少々パワーが強すぎたようである。

エーサオー玄治店(げんやだな)

 この歌の歌詞は、歌舞伎の有名な演目である「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の一場面「源氏店」(げんじだな)から題材を得ている。それまでの春日八郎の歌の傾向からすれば、いや、というより、バラエティに富んだ流行歌が数多く存在した歌謡曲全体を見渡しても非常に珍しいテーマであった。
 そして、この芝居で最大の見せ場が「源氏店」の場で、他人の妾であったお富さんと許されざる恋に落ちた与三郎は相手の男にばれてメッタ切りにあい、お富さんは海に落ちた。九死に一生を得た与三郎は三年後、松の木が見える黒塗りの塀の家で死んだはずのお富さんと出会うというシーン。そこで与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるわけだが、山崎正の歌詞はこの部分を実にうまくメロディにはめ込んでいる。
 尚、場歌舞伎では「源氏店」(げんじだな)となっているが、これは実際にあった江戸の地名「玄治店」(げんやだな)(現在の東京都中央区日本橋人形町あたり)の漢字読みに当字をしたものだ。
 さて、この「源氏店」の場面は時折り独立して上演されるほどの人気芝居だが、例えば「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ、いやさ、お富、久しぶりだなあ〜」。というセリフなどは、ドリフターズの加藤茶のパロディコントで使われたりして、歌舞伎ファンでなくとも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。ところが、歌の大ヒットによって、この「お富さん」という言葉の部分で客席から嘲笑が起きることがあり、これを重くみた一部の伝統芸能関係者からは歌に対する批判の声が上がる事態となった。心を痛めた春日八郎が歌舞伎界に挨拶に出向くなどの経緯があったが、しかし、「歌舞伎を一般的に広めた」という好意的な意見もあり、いつしか騒動もおさまった。

まわってきたお鉢ならぬ運。

 「お富さん」は春日八郎のために作られた歌ではない。作曲者である渡久地政信はこの曲を岡晴夫のために用意していた。ところがその岡晴夫はキングとの専属契約を解消してフリーになってしまったのだ。そこで社内で代替歌手を検討した結果、春日八郎でということに決まった。
 春日八郎は苦労の末、ようやく2年前に「赤いランプの終列車」をヒットさせ、その後もそこそこの売上げを上げてはいたものの、まだ社内では絶対的な立場ではない、いわば新人歌手同様の扱いであった。急遽、自分に回ってきた「お富さん」はもともとは他人の歌。しかも普段馴染のない歌舞伎がテーマということもあって、とまどいは隠せなかったが、逆にそれが功を奏したのか、変な思い入れもなく、肩の力が抜けたその歌声は軽快なテンポと妙に噛み合っていた。
 テスト盤の社内での評価は上々で、手応えを感じ取ったキングはキャンペーンにも力を入れた。代替歌手ということを逆手にとって、歌手名と曲名を発表しないまま、ラジオや街頭宣伝をするなどのアイデアで徐々にリスナーの興味を引いていったのだ。
 そして、当時の世相ともマッチて空前の大ヒット。下積み生活の長かった春日八郎はこの時すでに29歳、だが、回ってきたお鉢は運まで運んできたのであろうか、この曲によって押しも押されもせぬ人気歌手となった春日八郎は、その後もヒットを続け、昭和を代表する歌手となったのはご存じの通り。

「お富さん」のその後

 前年の28年あたりから、久保幸江、榎本美佐江などによって芽を吹きはじめていた「お座敷歌謡」「宴会ソング」は、この「お富さん」によって見事に昇華し、後に登場する三波春夫の「チャンチキおけさ」、五月みどりの「一週間に十日来い」などに結実するのである。また、「お富さん」の大ヒットに刺激をうけたビクターは負けじと翌昭和30年、やはり歌舞伎を題材にした歌「弁天小僧」(歌:三浦光一/作詞:佐伯孝夫/作曲:吉田正)を発売し、「お富さん」ほどではなかったがやはりヒットするなど、歌謡界に与えた影響は多大なものがあった。
 余談だが、時は流れて昭和38年、佐伯孝夫・吉田正のコンビは人気絶頂だった御三家の一角、橋幸夫にやはり歌舞伎をテーマにした曲「お嬢吉三」を提供している。余談ついでに、この年誕生した新生クラウンレコードのホープ、江島新太郎が「弁天小僧旅を行く」(作詞:有田めぐむ/作曲:正木よしお)でデビューした。もういっちょう余談だが、この江島新太郎、21歳にして日本舞踊「板東流」の名取りで30人の弟子を抱え、詩吟もやり、当時はまだ珍しかった自動車運転免許も持っていたという経歴の持主だった。
 渡久地政信は奄美大島の出身。あのイントロの独特のリズムは琉球音楽を取り入れたものという。永く愛され続けた「お富さん」は、そのアイデア溢れるオリジナリティで春日八郎の歌として定着し、スタンダードとしてリズムとサウンドは残っても、今、あえて歌舞伎を意識する人は少ないのではないだろうか。

玄治店(げんやだな)
玄治店は幕府の典医であった岡本玄冶法印(おかもとげんやほういん)の屋敷の事で、現在の東京都中央区日本橋人形町あたり、そのことからこの周辺を玄治店と呼ぶようになった。なお、この地域には芝居関係者も多く住んでいた。人形町三丁目交差点には「玄治店由来碑」が建立されている。

映画「お富さん」
歌の大ヒットをうけて大映(京都)で映画化、原案は吉方鶴三、脚本が 志摩裕二で、天野信がメガホンをとり、11月3日に封切り、出演は勝新太郎、小町留美子、水原洋一、伊達三郎などで、春日八郎ももちろんゲスト出演している。

| HOME | MENU | BACK | NEXT |

思い出のアルバム

PHOTO:昭和29年平凡12月号

お富さん姫路巡業通路、入口までお客さんが溢れた。


春日八郎プロフィール
春日八郎
●本名:渡部実
●大正13年10月9日生まれ
●福島県・会津出身

 旧制中学を中退し13歳で歌手を目指して上京。東洋音楽学校声楽科に学び、新宿「ムーラン・ルージュ」などでアルバイトしながら歌手活動を始めたが、太平洋戦争に突入。兵役を経て戦後再び上京。長い長い苦闘の末に昭和23年、キングレコード新人歌謡コンクールに合格。作曲家、江口夜詩に師事し、昭和24年正式にキングレコードの専属歌手となる。最初の芸名は歌川俊。ようやくプロ歌手としてスタートしたものの、先輩歌手の前座ばかり、相変らず鳴かず飛ばずの下積み暮しが続き、いたずらに年月だけが過ぎていくだけかに思えた昭和27年、「赤いランプの終列車」がヒットした。「雨降る街角」「街の灯台」とスマッシュ・ヒットを続け、昭和29年の「お富さん」の大ヒットで人気が定着。三橋美智也、若原一郎とならんで「キング三人衆」と呼ばれた。続く昭和30年には「別れの一本杉」がまたまた大ヒットしてその地位はゆるぎないものとなった。

Copyright (c) 1999-2003 A Ringo House. All Rights Reserved.
掲載の記事・写真・イラスト等の無断転載を禁じます。記事の著作権はRingo Housoに帰属します。