昭和30年代の後半から40年代にかけて、西暦で言えば1960年代は歌謡曲・流行歌の黄金期、多種多様な個性を持ち、輝きを放つ歌が次から次へと登場した、まさにゴールデン・シックスティーズ。スタンダードとして後世にまで歌い継がれる名曲・佳曲のほとんどがこの時代に登場している。それは「いつでも夢を」が登場した昭和37年も例外ではない。思いつくままに書いてみても、江梨子(橋幸夫)寒い朝(吉永小百合・和田弘とマヒナスターズ)赤いハンカチ(石原裕次郎)島育ち(田端義夫)星屑の町(三橋美智也)下町の太陽(倍賞千恵子)若いふたり(北原謙二)恋は神代の昔から(畠山みどり)などなど、そうそうたる曲ぞろいである。こんな中「いつでも夢を」は第4回日本レコード大賞の大賞曲となった。
 「いつでも夢を」が発売されたのは秋の気配を感じ始めた9月20日、そして、ようやく人々の耳になじむ頃にはもう冬。橋幸夫が大賞受賞を知らされたのは12月7日である。(発表は12月27日でこの時はまだ大晦日ではない)現在のように何千万円もかけて短期間でメディア露出を図るやり方はこの当時はまだ顕著ではない。テレビもまだ普及途上。日活による映画製作は同時に行われていたが一般公開は翌年1月11日である。ヒットするとしても、今と比べればそのスピードは遅く1曲の寿命は長かったと言える。つまり、数多くの年間ヒット曲がひしめく中、このわずかな期間に多くの人々の心をとらえ、大賞に選ばれるという事はとても価値のあることなのである。さらに、日本レコード大賞がその後、メディア・情報網の発達に伴い、カネとコネ、力の介入が噂されるようになるにつれ、一般庶民の支持と選考曲との間に微妙なズレが生じてくることを考えあわせれば、この曲の大賞受賞は、誰もが納得できる数少ない事例と言える。
 尚、選考対象となった曲の中には、前年発売の「王将」(村田英雄)。さらには前々年の「アカシヤの雨が止むとき」(西田佐知子)があった。いずれもこの年に100万枚突破のミリオンセラーを記録した強烈なライバルだが、結果的に「年度発売曲が対象」の原則は守られ、この2曲には例外として「特別賞」が贈られることとなった。その後、この「特別賞」はひとつのカテゴリーとして常設されることとなる。

夢と希望が持てた時代

 昭和37年。初の国産旅客機YS-11が空を飛び、東京の人口は1,000万人を突破し、世界一の過密都市となった。昭和35年に誕生した池田内閣は池田総理の持論である所得倍増論を標榜し、2年後に開催される東京オリンピックへ向けて日本経済はまさにかけ足で登っていた頃、まだまだ多くの国民は貧しかったが、それでも「一生懸命働けばなんとかなる・・」未来への夢と希望を持てた時代でもあった。だが、急激な高度経済成長は都会や工場地帯においてより労働力を必要とした。結果、地方から都会への人口流入は激しくなる。中卒者の集団就職がその最もたる象徴だが、高校生や他の若者とて例外なく都会へ都会へとよりよい生活を求めてやってきたのだ。一見、華やかさの裏には地方、特に農村基盤の崩壊という現実も深刻だった。
 この当時は中学を卒業すればもう一人前、働いて家計を助けるのは当り前だった。ましてや地方ではなおさらだ。とにかく高校に行くには金がかかる。高校進学率は70%前後、3分の一は就職していた。そして、そろそろ戦後第1次ベビーブームの時に生まれたいわゆる団塊の世代が中学卒業を迎える頃でもある。
 「団塊の世代」とは人口が多いということで、つまり競争が激しいということだ。やがて来るであろう学歴社会の兆候もあって、中卒のままではジリ貧だということは目に見えている。「高卒」の肩書はやっぱり無いよりはあった方がいい。貧しくて高校進学はあきらめたが「勉強したい」者も大勢いる。少しでも向上心を持った中卒の若者は、働きながら学べる「定時制高校」へと通った。

映画「いつでも夢を」に見るもうひとつの若者像

 日活で映画化された「いつでも夢を」。そこに描かれているのは定時制に通う若者達の日常の生活だ。
 当時、中卒者の労働力は「金の卵」としてもてはやされたが、では実際にその就職先はといえばほとんどが商店か町工場、もちろん、どんな職業であろうともそこに優劣をつけるべきではないし、誇りを持って臨めばなんら引け目を感じる必要はない。だが残念ながら世間の目はそうは見てくれない。現状に甘んじることを良しとしない者は「大企業のホワイトカラー」を目指すのもまたひとつの風潮であった。しかし、その肝心の「大企業」の方が「定時制高校卒業」を全日制高校卒業とは同列に見てくれないという現実。懸命に頑張った働く青少年達に対して門戸は固く閉ざされていたのだ。
 こうした実態を重くみた当時の池田内閣は、昭和38年3月、定時制高校卒業者の就職に関して差別をしないための閣議決定をし、文部省は定時制高校の教育内容の刷新を図り、関係各省庁や経済団体に対して差別なく門戸を開くように申し入れがなされた。
 定時制高校は別名「夜間高校」である。ほとんどは夕方の5時半くらいから始まる、仕事が5時きっかりに終る所は非常に少ない。会社の理解を得ることも必要だ。授業が終ってからまた仕事に戻る者も少なくなかった。1日4時間の授業で4年間。これをやり通すのは生やさしい事ではない。当然、途中で挫折する者もいる。また、定時制には様々な事情を抱えた者が通ってくる。経済的に恵まれない者、高校中退者、身体障害者など、それに年齢差もある。こういった人達が席を並べ、一緒に学び、悩み、助け合いながら、社会で生きていくための知識を身につける事は、全日制とはまた違った意味での人間の成長があると言えるだろう。確かに定時制高校は入学試験自体も比較的やさしい設定で、授業内容も自由度は大きい。社会教育の場ではなく、後期中等教育という位置付けだということもわかる。しかし、学校で得られる知識量のみで人の能力や価値判断が出来るということでもないだろう。大切なのはその人が企業にとって戦力となるかどうかだから。

夢でご飯は食えないけれど、夢があれば生きてはいける。

 暮れの寒い夜。木枯しが吹き抜ける街中に、橋幸夫・吉永小百合コンビの明るくさわやかな歌声は流れた。名もなく貧しく、背負った人生はつらいけど、星よりひそかに、雨よりやさしく、生きていかねばならない。「いつでも夢を」はコートの襟を立てて歩く人々の胸を暖め、夢と元気と勇気を与えたのだ。


[参考データ]

第4回日本レコード大賞
12月27日(木)日比谷公会堂
● 大賞
「いつでも夢を」 
歌:橋幸夫/吉永小百合/作詩:佐伯孝夫/作曲:吉田正
●歌唱賞
「星屑の街」
歌:三橋美智也/作詞:東条寿三郎/作曲:阿部芳明
●新人賞
「なみだ船」
歌:北島三郎/作詞:星野哲郎/作曲:船村徹
「下町の太陽」
歌:倍賞千恵子/作詞:横井弘/作曲:江口浩司
●作詞賞
「月火水木金土の歌」
歌:フランク永井/真理ヨシコ/松島みのり/作詞:谷川俊太郎/作曲:服部公一
●作曲賞
「遠くへ行きたい」
歌:ジェリー藤尾/作詞:永六輔/作曲:中村八大
●編曲賞
「恋の曼珠沙華」
歌:美空ひばり/作詞:西条八十/作曲:古賀政男
●企画賞
東芝音楽工業(株)
「スーダラ節」
歌:植木等/作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶
「はいそれまでヨ」
歌:植木等/作詞:青島幸男/作曲:萩原哲晶
●新人作曲賞
TBS「七人の刑事」主題歌
作曲:山下毅雄
●新人作詞賞
「おべんとつけてどこいくの」
歌:楠トシエ/作詞:若谷和子/作曲:松野国照
●童謡賞
「ちいさい秋みつけた」
歌:ボニー・ジャックス/作詞:サトウハチロー/作曲:中田喜直
●特別賞
「王将」
歌:村田英雄/作詞:西条八十/作曲:船村徹
「アカシアの雨がやむとき」
歌:西田佐知子/作詞:水木かおる/作曲:藤原秀行

 

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レコードジャケット

昭和37年9月20日発売
ビクターレコード/品番VS-807
日活映画「いつでも夢を」
定時制高校に通う仲間達を描いた青春映画の傑作。吉永小百合、浜田光夫のゴールデンコンビに橋幸夫が重要な役所で好演。挿入歌も橋幸夫が「若いやつ」「潮来笠」他4曲、吉永小百合が「寒い朝」、浜田光夫が「街の並木道」を歌うなど、主題歌と合わせて7曲も登場する豪華版。なかでも定時制高校からの帰り道、仲間達全員で「寒い朝」を合唱しながら工場街を帰路に着くシーンは最高だ。
テレビの歌番組
超多忙な人気スター同士のデュエットとあって、スケジュール調整が難しく、二人揃っての歌番組出演は非常に少なかった。
(PHOTO:昭和40年平凡8月号の記事より)古い雑誌のため、画質は悪いですがご了承ください。
プロフィール
橋幸夫
●昭和18年(1943)5月3日生
●本名:橋幸男
●出身地:東京都荒川区

 昭和35年、「潮来笠」でデビュー。いきなりの大ヒットで、この年の日本レコード大賞から新設された新人賞の第一回受賞者となる。初期の股旅物・時代物中心から徐々に青春路線へと転換を図り、さらにいち早くリズム歌謡に取り組むなど、アイデアと時代感覚で常に歌謡界をリードした。また人気の上昇に伴って歌のみならず、テレビドラマや映画にもひっぱりだことなるなど、押しも押されもせぬスーパースターに。後からデビューした舟木一夫、西郷輝彦とともに御三家を形成、一時代を築いた。
昭和37年に、吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」で日本レコード大賞。昭和41年には「霧氷」で二度目の日本レコード大賞を受賞。現在までに発表したオリジナル曲はSP、LP、CDを含め500曲を超えている。また、昭和63年には、日中国交正常化15周年記念3万人コンサートを上海で行うなど、海外公演も積極的にこなした。
 平成元年に、老人性痴呆症となった実母と家族の愛を元にした「お母さんは宇宙人」がベストセラーとなり、長寿社会に突入した日本の老人医療、介護問題に一石を投じた。その体験には全国から講演依頼が殺到するなど大きな関心を呼んでいる。

吉永小百合
●昭和20年(1945)3月13日生
●東京都渋谷区

 幼い頃からピアノ、日本舞踊などを習い、小学校では児童合唱団の一員となり活躍。父の事業の失敗から経済的な困窮も体験。11歳の時にラジオドラマ「赤胴鈴之助」に出演。実質的な芸能界デビューとなる。14歳で日活映画「朝を呼ぶ口笛」で映画デビュー。高校入学と同時に家計を助ける為に日活と専属契約を結び、本格的に女優としてスタート。赤木圭一郎の相手役を務めるなど、当時全盛だった日活アクションを中心に出演した後、15歳で初主演となった「ガラスの中の少女」で難しい役所を好演。17歳で「赤い蕾と白い花」に主演、同時に主題歌「寒い朝」を歌い、歌手としてもデビュー。さらに橋幸夫とのデュエット「いつでも夢を」で日本レコード大賞受賞。映画「キューポラのある街」でNHK最優秀新人賞、第13回ブルーリボン賞主演女優賞、ミリオンパール女優主演賞、シルバースター新人賞など各賞を総なめ。その後も青春映画、文芸映画など月1本のペースで映画に出演するなど大活躍。だが、高校へほとんど行けない状態となり、学校の配慮で推薦交友としてなんとか卒業はできたものの、「永く芸能界にいると世間が見えなくなる」と、大学入学を決意。過密スケジュールの中、見事早稲田大学に入学。美貌と知性、その生き方は大学生を中心とする多くの若者に支持され、「サユリスト」という言葉を生みだした。

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