PHOTO:毎日新聞社

 その詞の内容から、東北地方からの集団就職者の愛唱歌となった「あゝ上野駅」。作者の関口氏によると、上野駅の原風景をイメージしていたら結果的にそうなったと言っているように、それ位、当時の上野駅は東北からの集団就職列車の到着口としてのイメージが定着していた。
 今ほど交通網も情報も発達してはいなかった時代。地方に住むものにとっては「東京」はすべてが華やかでパラダイスのように思えていた。いわば憧れでもある一方で、一旗揚げる「場」でもあったから、ある意味では上野駅(関西・九州方面からはは品川駅)は人生のターニングポイントとなる場でもあったかも知れない。だが、集団就職者にとって現実は「華やかさ」からはほど遠いものだった。


就職列車にゆられてついた

 昭和29年4月5日、中学を卒業したばかりの少年少女622人を乗せた、8両編成の就職専用列車が青森駅から上野駅に向けて出発した。集団就職列車の第一号である。
着慣れた学生服やセーラー服に、就職先から支給された支度金で買ったばかりのコートをはおり、ボストンバックひとつをさげて、知らない土地に向う不安と、少しばかりの希望の入交じった顔で列車に乗込む。見送る親たちでごった返すホームは、「風邪ひくなよ」「向うは人や車が多いからな気ィつけろ」などの言葉を窓越しにかわしながら、涙、涙の別れのシーンが毎年続いた。
 上野駅に着くと、店の親方や工場の社長が優しく出迎えてくれる。仲間達がそれぞれの就職先に別れていくと一抹の寂しさがこみ上げてくるが、初日は雇主に連れられての東京見物、憧れの街はビル群と人と車の波。見るものすべてが驚きだった。そして田舎ではめったに口にすることはなかったトンカツやソフトクリームをご馳走になり、ようやく心も落着き、楽しい一日は過ぎていく。だが、翌日からは試練の日々が待っているのだった。


●ようやく人材を確保出来た工場主や商店主は三顧の礼で金の卵を出迎える。彼等の瞳に奥には、いくつもの夢や希望が映っていたことだろう。
(PHOTO:毎日新聞社)

「金の卵」と呼ばれて 

 日本の高度経済成長を陰で支えたのは「金の卵」と呼ばれた中卒の集団就職者であった。だが「金の卵」という言葉は雇用者側の倫理によって生れたものであり、けっして彼等自身を言い表わした言葉ではない。
 日本の経済復興は昭和25年に始った朝鮮戦争の特需景気によって勢いづき、昭和35年、池田内閣の「所得倍増計画」によってピークに達する。だが、言い方を変えれば「経済発展途上」なのであり、まだまだ多くの国民は貧しかったと言える。特に地方においては都市部との経済格差は大きく、農村部や漁村部は就職口はきわめて少なかった。さらに子供は3〜5人いるのが当り前の時代、高校へ進学できる家庭はごく希で、ほとんどの子供達は中学を卒業すれば就職するのが当然のように思っていたし、また、親にとってもようやく育て上げて、これから家計を助けてくれる貴重な戦力だったわけである。
 中学卒業者が労働力として引張りだこになるのは、高度経済成長と同じく昭和35年から45年あたりまでがピークだが、特に「もはや戦後は終った」と世界にその経済力を示す機会となった「東京オリンピック」のあった昭和39年には中卒求人数は171万人。それに対して就職者は前年の46万人を最高にこの年は41万人でその後は徐々に下がり始める。求人倍率4倍強という慢性的な人手不足であった。
 高校進学率は就職列車の始った昭和29年に50%だが、その後は急激に伸びていく、昭和45年には90%を越えているので、経済成長にともなって増えるという皮肉な結果になったわけだ。
 雇用者側はあの手この手で人員確保に走り回る。なにしろ彼等は安い賃金で真面目に働く貴重な労働力なのである。「金の卵」は雇用者側にとってまさに金を生んでくれる卵だったのだ。事前に送金する就職支度金の金額を競ったり、定時制高校へ通わせることを条件にしたりと、勧誘の仕方はさまざまだが、実際には約束を守らない事業所もかなりあった。
 学校の就職担当の先生も実態を把握できていなかったケースもある。就職した生徒から「約束が違う」と手紙で知らされてあわてて上京してみると、定時制高校どころか、給与体系は日給月給、残業手当もつかない、有給休暇もないなどの事態が明らかに、だが大きな時代のうねりのなかでは、個々のトラブルも飲み込んで時間は進んでいった。

くじけちゃならない人生は。

 彼等の就職先はほとんどが中小零細企業、いわゆる町工場や商店などで、当然、住込みとなるわけだが、賃金は約3,000円から4,000円。当時の高校卒初任給の平均が11,560円、大卒で17,179円であったことを見ても、いかに安いかがわかる。しかも労働条件は過酷であった。平均労働時間は10時間、休みは月に2回あればいいほうで、ほとんど無いところもあった。住込みであるがゆえに休みが取りにくい状況だったわけだ。
もちろん、悪い話ばかりではない。家庭的な事業所もあったし、一人前になればのれん分けをしてくれるところもあった。だが、漏れ伝えられる話はどちらかといえば暗い話が多かったのも事実。
 地方なまりをバカにされ、なれない仕事と知らない街での寂しさの中で、少ない給料の中から半分を田舎に仕送りをする、それでも彼等にとっては働ける事が重要だった。それに、毎年、毎年、同じ境遇の若者が全国から何十万人も東京を目指していたのだから、時代を共有しているという目に見えない連帯感と、自分一人ではないという安心感を心の奥底に秘めて頑張ったのだ。やがて、しっかりと東京の土地に根をはり始めた彼等は彼等なりの居場所を見つけだす。それは、働く仲間達のサークル「若い根っこの会」であり「歌声運動」だったりした。

あの日ここから始った。

 上野駅は故郷とつながっている唯一の心のよりどころだったのかも知れない。だから「ああ上野駅」は集団就職者の愛唱歌となったのだろう。すでに第1号の集団就職者は還暦を過ぎている。そして彼等の出会いや別れ、悲喜こもごもを見てきた上野駅18番ホームは1999年、9月11日に静かにその歴史を閉じた



 関口氏がこの詞を作詞したのは春日部市の銀行員だった頃、歌がヒットした4年後に退職、その後プロの作詞家として独立した。
 レコード化にあたってメロディは3曲用意されていた。井沢氏の師匠である大沢浄二氏のものが1曲。荒井英一氏が1曲。そしてスタッフグループによる1曲である。荒井氏はこのグループにも加わっていて、それぞれが持ち寄ったメロディをまとめ上げ、協議の結果、最終的にこのグループのメロディに決定した。
 尚、当初、曲間のせりふはなく、井沢氏自身がテレビの歌番組に出演中、父親の訃報が入り、とっさに即興で入れたのが好評だったため、その後発売のレコードに追加されたものである。


PHOTO:平凡

井沢 八郎

●昭和12年(1937)3月生れ
●本名:工藤金一
●青森県弘前市出身

少年時代から「のど自慢荒らし」として地元では有名だった。中学二年の時にはすでに弘前市内のキャバレーでプロとしてステージに立つ。昭和32年(1957)、20歳になったのを機に本格的な歌手を志し、米を精米所に売り、その金を元に家出同然で上京。キャバレーのバンドマンをしながら歌のレッスンを続け、昭和38年(1963)「男船」で念願のレコードデビュー。シングル第2弾「あゝ上野駅」が大ヒット。その後もパンチのある高音で演歌一筋。65歳になった今も元気に現役を続けている。女優の工藤夕貴が娘であることは有名だが、最初の頃は「井沢八郎の娘、工藤夕貴」だったのが、今では「工藤夕貴の父親、井沢八郎」になっちゃったョ。と目を細めながら娘の活躍を見守っている。ヒット曲は他に「男傘」「北海の満月」など。

●男船(昭和38年/1963)
作詞:松井由利夫/作曲:大沢浄二
●男傘(昭和39年/1964)
作詞:松井由利夫/作曲:大沢浄二
●北海の満月(昭和40年/1965)
作詞:松井由利夫/作曲:大沢浄二


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