どこまでも続く白いビーチ、遠浅のマリンブルーに、神の仕業か、見事なまでのダークグレーのストライプを描く奇岩「鬼の洗濯岩」を、波がやさしく洗っている。心地よい風が奏でるフェニックスの葉ずれの音をバックミュージックに、寄り添って何かを語らう二人は新婚さんだろうか・・・。やがてサンセットのオレンジを背中に受けてシルエットが砂浜に長く伸びる。この情景だけを切り取って見れば、もう気分はウェスト・コーストかワイキキ・ビーチのようでもある。

 「フェニックス・ハネムーン」は、デューク・エイセスの「にほんのうた」シリーズの中の1曲で、宮崎のうたとしてアルバム第二集に収められ、シングルとしては11枚目、昭和42年(1967)3月「紺がすり(秋田)」とのカップリングで発売された。
 タイトルが示すとおり、新婚旅行のスポットとして人気絶頂だった宮崎を訪れた若いカップルの心情を歌ったものだ。おそらく当時としてはこれ以上のテーマはなかったであろう。甘くロマンティックなバラード、そしてさやわかなコーラスは、宮崎空港や当時の国鉄宮崎駅で押し寄せる新婚カップルを出迎えた。
新婚旅行ブーム

 昭和30年代から40年代にかけて宮崎は空前の新婚旅行ブームに沸きかえっていた。それは他の観光客も誘発し、まさに「観光宮崎」の絶頂期だったわけである。
 当時の日本は飛ぶ鳥落す勢いの高度経済成長時代にあって、東京オリンピックを境にようやく生活にもゆとりが持てるようになり、観光レジャーにも目を向けはじめていた頃である。
 それまでの観光・新婚旅行といえば、関東圏では熱海、関西圏では伊勢志摩といった近場が定番であった。景気も良くなってきて「そろそろ遠くに足を伸ばそうか」という気運は高まったが、だからといって「海外旅行」となると一般庶民にとってはまだまだ高嶺の花。だが、国内に格好の場所があった。宮崎である。
 宮崎に対して抱くイメージは「真っ赤な太陽に青い海と白い砂」。まるで絵に描いたようにそのまんまだが、フェニックスやビロー樹などの亜熱帯植物郡が生い茂る温暖な気候はまさに南国ムードたっぷり、ほんのちょっぴり外国気分を味わえる宮崎の風情は当時の人々にはとても魅力的に映った。だが、それにも増して訪れる人を喜ばせたのは宮崎人の素朴な人情であろう。
 「新婚さん!」、土地の人達は訪れる若いカップルを親しみを込めてそう呼び、気候に負けない温かさで迎えた。タクシーに乗れば運転手はただ黙って運転するだけではない。懇切丁寧に各地をガイドし、カメラマン役もこなす、二人にとって最高の想い出となるよう演出に努めるスタイルは、その後追随する他の観光地の手本となるなど、「新婚旅行ブーム」はこういった名も無き人々によってその底辺を支えられていたのである。

宮崎とフェニックス

 宮崎市とその周辺の道路沿いには必ず見られるフェニックス並木。フェニックスは昭和41年に「県の木」に指定されるなど、宮崎とは切っても切れないシンボルである。もちろん自然に自生していたものではなく植樹されたものだが、ただ植樹とはいってもそこいらのちょっとした公園にに植えるのとはわけが違う。
 宮崎市街からさらに南に位置する日南市まで、太平洋をすぐ眼下に臨みながら山の中腹を走る「日南フェニックスロード」は片道約100km。その間中、フェニックスが視界から消えることはない。この壮大なスケールの植裁事業の影には二人の男のロマンと壮絶な闘いがあった。

PHOTO:堀切峠の頂上付近から日南フェニックス・ロードを望む。(宮崎県観光協会提供)

[フェニックスの父]
 中村林太郎は、まだ雑草しか生えていなかった日南海岸を訪れるたびに「この素晴しい景観をもっと南国イメージに演出できる並木はないだろうか」と模索していた。そして、ヒントは意外なところから浮かんだ。ハワイに住む妹から送られたクリスマスカードに映るフェニックスの並木。「これしかない!」。
 中村林太郎は福岡出身だが、大正5年に宮崎に引越して園芸場の経営を始めた。いわば造園のプロ。早速、種子を取りよせ栽培を開始。だが、思うように育たない。「やはり、宮崎では駄目なのか・・」情熱も消えかけた5年目、ついに発芽に成功。「やった!」。その後、栽培は順調に軌道に乗ったが、やがて日本は戦争に突入。戦時中は軍部の圧力により、花木よりも食物生産に切り替えるよう強要されたり、基地の偽装用としてフェニックスの供出を命令されたりしたが、「木は私の命」と体を張って守り通した。
 そして終戦。中村林太郎が守ったフェニックスは岩切章太郎などの尽力により日南海岸に植裁され、ようやく念願がかなうこととなった。さらに宮崎市街地、大淀河畔の並木として寄贈。この一帯は橘公園として市民の憩いの場になるとともに、道路をはさんだ向い側はホテルが建ちならび、そのホテルから望む川面とフェニックスの調和は多くの文化人に愛された。
 尚、「日南フェニックス・ロード」と「橘公園通り」は「日本の道百選」に選ばれている。

[宮崎観光の父]
 「自然の美・人口の美・人情の美」。これは「宮崎観光の父」と呼ばれた岩切章太郎が、昭和44年、県観光協会が行った講演でのテーマである。
 宮崎は観光都市と言われてはいたものの、内実、そのほとんどは民間の活力によって成されたものだ。その先頭に立って引っ張ったのが岩切章太郎である。
 岩切章太郎はバス会社を経営するかたわら、宮崎の観光開発にあくなき情熱を燃やした。だが、観光開発とはいっても、行政が行うような、今あるものを根こそぎ破壊し、鉄とコンクリートで固めたハコ物を作るやり方とは根底から発想が違う。
 郷土宮崎の大自然をこよなく愛する岩切章太郎は、「大地に絵を描く」が如く、景観を変えるのではなく、その自然を「生かす」ことに主眼をおいた。美しい空、おいしい空気、きれいな水、咲誇る草花や緑の山々。これら「自然の美」を守り育てながら、「美しいものはより美しく」創出による調和を計っていく。そこに足りないものは「植え足し」によって補う、それがフェニックスであった。そして、景観を損う雑草や雑木は取払う「切り出し」。これこそが「人口の美」の考え方であり、人間の手を加えるのは最小限にとどめる姿勢を貫いた。だが、最も心を砕いたのは「人」であろう。宮崎の印象をより深く与えるためには、「ここに暮す人々のおおらかな人情をぜひ知ってもらいたい」岩切章太郎は、どこにも負けない「こまやかなサービスと心遣い」を自らの社員に徹底させた。これが「人情の美」である。

観光宮崎・・・

 岩切章太郎は戦後まもない昭和22年(1947)に宮崎県観光協会会長に就任。昭和25年(1950)に「東海道五十三次・声の旅」と題し、自らが経営する会社の観光バス14台を連ねて東京から宮崎まで観光宣伝隊を走らせた。「観光宮崎」としての第一歩である。
 昭和30年(1955)に「日南海岸」が国定公園の指定を受け、昭和34年(1959)から、日本一の人気を誇るプロ野球、ジャイアンツ球団のスプリング・キャンプ地に決定。昭和35年(1960)には島津久永、貴子御夫妻が新婚旅行で訪れ、続いて昭和37年(1962)、新婚間もない皇太子御夫妻(現、天皇皇后両陛下)が県内の観光地を視察。昭和38年(1963)に宮崎交通のバスガイドをモデルにした松竹映画「百万人の娘たち」(岩下志麻主演)が封切り、そして昭和40年(1965)、川端康成原作のNHKテレビ小説「たまゆら」が1年間放映されるなどの出来事が相次ぎ、この間、観光宮崎は大きくクローズアップされ、全国にその名を認知されていったのだが・・・・。

続編「観光宮崎の光と影」をお楽しみに。

[参考資料]宮崎交通株式会社広報[情報提供]宮崎県観光協会/宮崎市観光協会



 「にほんのうた」シリーズは、デューク・エイセスが、作曲いずみたく、作詞永六輔とともに、旅人として全国各地を回り、あたらしい日本の歌をつくろうという壮大な構想のもとにスタートした。
 昭和40年(1965)5月、第一弾「オランダ坂をのぼろう(長崎)/十和田の底に(青森)」の発売を皮切りに、昭和45年(1970)までの5年間、「女ひとり(京都)」「いい湯だな(群馬)」「別れた人と(兵庫)」など数多くの名曲を生みだし、昭和41年(1966)のレコード大賞企画賞、昭和44年(1969)には同じくレコード大賞特別賞と、同一シリーズで二度も受賞するなど、各方面から多大な評価をうけた。
デューク・エイセス

谷道夫(バリトン/リーダー)
■昭和9年(1934)11月8日生
吉田一彦(セカンドテナー)
■昭和11年(1936)1月25日生
槇野義孝(ベース)
■昭和11年(1936)2月24日生
飯野知彦(トップテナー)
■昭和28年(1953)5月6日生

 デューク・エイセスは宮崎出身の谷道夫が中心となって昭和30年(1955)に結成。アメリカン・ポップスやブルース、ジャズなどを得意とし、米軍キャンプ等で活動。昭和37年(1962)の「スイング・ジャーナル」誌の人気投票、ボーカル部門で第一位を獲得するなど、その実力は高く評価された。
 この年からNHKテレビ「夢で逢いましょう」のレギュラーとなり、にほんのうたはもちろん、映画音楽やシャンソン、カンツォーネなどレパートリーを拡げ、いまやその数1500曲にもおよぶ。
 浮沈みの激しい音楽の世界において常に第一線で活躍してきた彼等は、いまだに輝きを失わないその美しいハーモニーでファンを魅了し続けている。
 代表的なヒット曲に「ドライポーンズ」「ジェリコの戦い」おさななじみ」「女ひとり」「いい湯だな」などがある。


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