PHOTO:キングレコード
昭和34年(1959)の暑い夏。全国各地の海水浴場や祭の会場からは、必ずといっていいほどペギー葉山の歌う「南国土佐を後にして」が聞こえていた。「南国土佐」「はりまや橋」「月の名所桂浜」「室戸の沖の潮吹く魚」。これらの言葉から、多くの人々は、まだ見ぬ「土佐の高知」のイメージを大きく膨らませ、あるいは、故郷を離れ、都会で働く者は、自分の故郷への郷愁をダブらせて聞いたことだろう。
■故郷への郷愁
戦後の歌謡史にかかせない大ヒットとなったこの歌は、いわゆる「ご当地ソング」、ディスカバー・ジャパンのはしりでもある。それまでも「ご当地ソング」と呼べる歌はあるにはあったが、そのほとんどは、どちらかと言えばイメージ・ソング的ニュアンスのものであった。だがこの歌は詞の中に南国土佐、高知の名所旧跡を随所にちりばめ、民謡「よさこい節」のメロディーがフィーチュアされ、全国に「高知県」を十分にアピールした。折しも世は都会を中心に好景気に沸き、職を求めて地方から多くの人々が都会へと集中していった時期でもある。故郷への郷愁をさそうこのメロディは、都会で働く多くの人々の望郷の念を呼び起したのだった。
そして、歌と共に大ヒットしたのが、タイアップで制作された日活映画「南国土佐を後にして」である。日活のニューフェイスでありながら冷遇されてきた小林旭が主役を演じて大ブレーク。のちに「渡り鳥シリーズ」へと発展して看板スターとなった記念すべき映画でもあるが、現地ロケにより、ふんだんに映し出される南国土佐の風景は、ペギー葉山のロマンティックな歌声と相まって人々の憧れを誘った。いろんな魅力が詰まったこの映画と、そして歌により、南国土佐は爆発的な観光ブームとなる。この年に高知を訪れた観光客は42万人。翌、昭和35年が56万人。そして、ピーク時の昭和36年には68万人と、多くの観光客が押し寄せた。余談だが、観光の目玉はなんといっても歌にも歌われた「はりまや橋」。だが抱いていたイメージと、現実のギャップは大きく、いつしか「がっかり橋」あるいは「がっかり名所」とまで言われるようになった。

PHOTO:日活映画「南国土佐を後にして」の一場面
■きっかけはテレビ
この歌が世に出るきっかけとなったのは、昭和33年(1958)11月、NHK高知放送局のテレビジョン開局記念番組「歌の広場」で歌ったことによるもの。この時司会を担当したのが故高橋圭三氏で、「この歌は絶対にヒットする」と予言したそうである。
曲そのものはそれ以前に、民謡歌手の鈴木三重子によってレコード化されていて、昭和30年前後に地元のラジオなどでは時折流れていたのだが、全国的にはまったく知られていなかった。テレビの本放送開始とともに、ペギー葉山によってレコード化されると、翌、昭和34年にかけて、高橋圭三氏の予言通り、全国的な大ヒットとなっていった。
考えてみれば、昭和34年(1959)は「テレビ時代」の到来を告げるエポックメーキングな年であった。時の皇太子(現天皇)と、民間から初めて天皇家に嫁がれる美智子様のご成婚が完全生中継されるとあって、この世紀のご成婚を見ようとテレビ受像器の売上げが急増、わずか1年前には受信契約が91万台に過ぎなかったのが、結婚式直前の4月3日に200万世帯を突破、その勢いをかって半年後に300万世帯に達した。また一方で、1月にNHK教育テレビ。2月に日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)が開局。3月にはフジテレビが本放送を開始。7月には日本テレビが世界初のカラーでプロ野球ナイター中継をするなど、テレビ局側の熱気もエスカレート。景気も右肩上がりで急上昇中であり、大衆は豊かさの象徴でもあったこの新しい情報媒体、「テレビ」に飛びついた。まさにそんな時代に向ってのNHK高知放送局テレビジョン開局だったわけである。
■「南国土佐を後にして」の元歌
昭和34年と言えば、レコード大賞の始まった年でもある。記念すべき第1回レコード大賞は水原弘の「黒い花びら」が受賞したが、最後まで争ったのがこの「南国土佐を後にして」である。最終的に決め手となったのは「南国土佐を後にして」の方には元歌があり、選考委員の判断は「純粋なオリジナルではないから」というのが理由だったと記憶している。
「南国土佐を後にして」の元歌は、戦時中、主に中国北部戦線で戦っていた四国出身者による部隊、「歩兵第236部隊(通称:鯨部隊)」で歌われていた「よさこいと兵隊」である。だが、いわゆるプロの作曲家による「軍歌」とは一線を画す。軍隊愛唱歌とでも言った方がふさわしいだろうか。作者は特定できない、不特定多数の兵隊達によって自然発生的に歌われるようになった歌だが、もっと遡れば、民衆の間から生れた歌、通称「俗曲」といわれるものが歌い継がれてきたものである。したがってオリジナルの楽譜というものは存在せず、時代や土地柄、あるいは伝播スタイルによって、微妙にメロディも歌詞も変化してきた。これらのいくつかのパターンを採譜してひとつの曲として仕上げたのが、戦後、高知で音楽活動を続けた武政英策氏であった。こういうケースは他にもあって、例えば小林旭の「ズンドコ節」「ダンチョネ節」なども、もともとは俗曲であり、戦時中、兵隊達の間で歌われていたものを、戦後、遠藤実氏が採譜・作曲したものである。あるいは、守屋浩の「有難や節」、他にも競作となった「ツーレロ節」など、俗曲に題材を求めた歌謡曲は数多い。また、当時は民謡や詩吟を挿入する手法も盛んで、歌謡曲隆盛に一役買ったひとつのスタイルであったと言える。
♪土佐の高知のはりまや橋で〜
江戸時代、土佐藩の豪商といわれた「播磨屋(はりまや)」と富商「櫃屋(ひつや)」は、堀によって隔てられていたが、互いの往来のために自前の橋を堀川に架けた。これがのちに「はりまや橋」と呼ばれるようになったと言われている。何度か架け替えられたが、昭和33年「南国博覧会」開催を期に朱色の欄干に改装。だが、その後、堀川は埋立てられ、朱色の欄干だけの「はりまや橋」は訪れる観光客をがっかりさせ続けた。
現在は、市の再開発事業で周辺は公園化され、水路も設置されてその上に本格的な太鼓橋が架かり、「新はりまや橋」として復活している。
♪室戸の沖で鯨釣ったという便り〜
土佐は古くから捕鯨が盛んだった土地柄でもある。1591年には長蘇我部元親が鯨を丸ごと大阪城に献上した。という記録もあるし、60年代から70年代にかけて、ノルウェーと並んで捕鯨大国としてその名をはせた日本の捕鯨船団の中心を為していたのは土佐の漁師だった。
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