底抜けに明るかったジャパニーズ・グラフティ
テレビの普及。ドーナツ盤にステレオ。そしてどこまでも伸びていく高速道路。それにともなうモータリゼーションの発達。モダンな住宅、宇宙時代。暗く長い「戦後」というトンネルから明るい太陽のもとへ抜け出したような黄金の60年代(ゴールデン・シックスティーズ)。それは日本だけではなくアメリカも、いや世界的にも同じ傾向だった。 60年代の始め、アメリカン・ポップスは世界を席巻していたが、イタリアのカンツォーネやフランスのシャンソンにもニュー・エイジは誕生していた。アメリカではほとんど無視されていたこれらのヨーロッパのポップスやラテンにも日本は目を向けていた。中尾ミエ「アイドルを探せ」(シルビー・バルタン)、ザ・ピーナッツ「情熱の花」(カテリーナ・バレンテ)、森山加代子「月影のキューバ」(セリア・クルース)。などをはじめとして弘田三枝子や園まりなども好んでヨーロッパの曲をカバーしている。なんでもどん欲に吸収してしまう日本のポップス業界は、まさにワールド・ミュージックの一大市場と化していたのだ。そしてその勢いは日本だけのローカル・ヒットをも生み出していく。克美しげるの「霧の中のジョニー」(ジョン・レイトン/イギリス)、森山加代子「ポケット・トランジスタ」(アルマ・コーガン/イギリス)もちろんアメリカの曲でも平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎のロカビリー三人男の競作となった「恋の片道切符」(ニール・セダカ)飯田久彦「ルイジアナ・ママ」(ジーン・ピットニー)中尾ミエ「可愛いベイビー」(コニー・フランシス)などなど数多く、本人もびっくり!の、日本語カバーでヒットしたものが、オリジナルのヒットへ結びつくという後追い現象をも生んだ。さらに、今度は外国のシンガーが日本オリジナルの曲をカバーするようになった。もちろん日本国内だけの販売で、これには業界サイドの思惑が左右していたことはいなめないが、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」は実はカテリーナ・バレンテとの競作であったり、ジョニー・シンバルが坂本九の「明日があるさ」英語で、同じく、坂本九の「涙くんさよなら」をジョニー・ティロットソン。ブレンダ・リーが「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」を多くの日本人歌手と競作。ペギー・マーチにいたっては久保浩の純青春歌謡「霧の中の少女」を歌っている。 だが、栄華を誇ったジャパニーズ・グラフティ、日本語カバーポップスの時代もやがて終焉がやってくる。 ●
それは突然やってきた。
日本中が東京オリンピックに沸きかえっていた昭和39年(1964)リブァプール・サウンドと呼ばれたイギリスのビートルズが大ブレイク。「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」(日本語タイトルは抱きしめたい)が、全米No.1を記録すると日本にも飛火。長髪にエレキ、美しいメロディーラインに荒削りなビート、シンプルでストレートなロックンロールは、しばらくの間、心地よいストリングスのオーケストラをバックに歌うキュートな音楽に慣れていた耳には、ぶっ飛ぶほどの新鮮なインパクトを与えた。その後も、ローリング・ストーンズ、デイヴ・クラーク・ファイブ、アニマルズなどが続々と登場。人々はそれをブリティッシュ・インベンションと呼んだ。 あっという間に世界のミュージック・シーンを席巻した彼等の特長は、ほとんど4〜5人の小編成。そして自分たちで作曲し、自分たちで演奏して歌うという新しいスタイルだった。同時期にブームとなっていたエレキ・インストとともに、それまでの聞く・見るだけの音楽から、自分たちで作曲し演奏し、歌うという参加する楽しさを与えた。この事は若者達のライフ・スタイルまでをも変えたのである。 そうして、それまでのポップスは一気に古いものとなり、カバーポップスの日本語詞の大半を手がけた漣健児氏(前述、草野昌一氏のペンネーム)をして「彼等の曲に日本語は乗りにくい」といわしめたのである。事実、このブリティッシュ・ロックも何曲かは日本人による日本語カバーがリリースされたが、もう売れることはなかった。そして、カバーポップス時代を彩った第二世代のポップス歌手達も、先輩達の後を追うように歌謡曲へとシフトしていった。もう次の波、グループ・サウンズとフォークの台頭を迎えようとしていたのである。 ●
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