厳密的に見れば、本場アメリカでは「ロカビリー」という固有の形態はすぐに薄れていき、またロックン・ロールもバディ・ホリーの死、あるいはプレスリーの兵役などもあって影をひそめ、日本がロカビリーに湧いている頃はすでに、トラディショナルな優等生的ポップス、ソフト・ロックを歌うティーンズ・アイドルの時代となっていた。
 そして、日本も60年代を迎える頃にはロカビリー旋風はピークを過ぎ、急速に下火となっていく。ポール・アンカ、ニール・セダカ、パット・ブーンなどの洋楽曲が競うように日本語でカバーされリリースされていったわけだが、この「外国曲に日本語詞をつけて歌う」いわゆる「和訳ポップス」は、当時の状況としては的を得たアイデアであろうことは想像がつく。情報も資料も手に入りにくい、英語の勉強をする環境もヒマもない。原曲をそのままマネしてもどこかウソっぽく、なおかつプアーである。それはリスナーにとっても同じ事で、全体的には耳に入ってくる流行歌は大半が歌謡曲であり、とっつきやすいという意味で「和訳ポップス」はわかりやすく、都合がよかった。まず、日本人が日本語で歌うポピュラーを通して原曲に興味を持つ。というパターンがほとんどだったのである。こうして、日本語カバーポップスが定着しつつあるなか、それと平行して歌謡曲も歌うようになっていった。すでに昭和30年(1955)に「青春サイクリング」をヒットさせている小坂一也の存在もあるが、強いインパクトを与えたのは平尾昌晃である。昭和33年(1958)に自らのオリジナル「星はなんでも知っている」(クレジットは津々見洋)をリリース、これが大ヒット。この曲はインディオのリズムを取り入れた佳曲で、その後のリズム歌謡に与えた影響は大きい。そして水原弘「黒いはなびら」のヒット。この曲もジャズ出身の中村八大の作曲で、ミディアム・テンポのロッカバラードをベースにした、どこかポップスの雰囲気を漂わせていた。
 こうした動きは歌謡界にも新風を吹込み、民謡や俗曲などの日本古来のリズムと外国のリズムとの組み合わせ。などといった新しい試みはますます盛んになり、ロカビリーの衰退とともに、これらの動きに取り組み始めた多くのロカビリー歌手やポピュラー歌手が続出。和・洋の同居、多様化の傾向は、リズム歌謡・歌謡ポップスの流れをよりはっきりとしたものにしていった。

●PHOTO:昭和33年(1958)ポール・アンカ来日、この時17歳。熱狂的な歓迎を受けた。
(読売新聞社)

●PHOTO:昭和34年12月15日(1959)第1回レコード大賞授賞式での水原弘。


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