1950年代も半ばになるとジャズ・ブームは下火となり、ペレス・プラードの来日(昭和31年/1956)によるマンボ・ブーム、それに付随するラテン、あるいは浜村美智子のカバーヒット「バナナ・ボート」などによるカリプソブーム、ハワイアン・ブームなどの「南国ムード」がもてはやされたりと、いくつかの音楽が相前後するように小刻みなブームを繰りかえしたが、これらを全部飲込んでしまいそうな大きな波があった。「ロカビリー」である。
この頃、すでに数多く誕生していたジャズ喫茶やジャズ酒場などは、ジャズ衰退のなか入れ代るように盛上がってきたカントリー&ウェスタン(当時はシンプルに「ウェスタン音楽」と呼んでいた)にシフトし始め、出演者の大半はカントリー&ウェスタン系のバンドや歌手によって占められるようになっていった。名前は「ジャズ喫茶」のままだが、中でやっている音楽はカントリー&ウェスタン。というのがこの頃の大勢だったのである。そこはなんといっても人気商売。それまでジャズ中心に活動していたミュージシャン達も次々にカントリー&ウェスタンへと移っていき、さらに、そのカントリー&ウェスタンから派生したヒルビリーとロックが結びついた「ロカビリー」へと流れが変るとボルテージは一気にあがっていった。だが、これまでのブームとはやや様相が違っている。それは、この熱狂の中心は大半が二十歳前後の若者達だったということである。この頃はまだ戦後の混乱期だったということもあるが、十代の歌手は数多く登場していたにもかかわらず、演じられる音楽や歌はほとんどがどちらかというと大人向けであり、若者、特にティーンエイジャーにウケるものは意外と少なかった。だが、「ロカビリー」はそれまでの音楽にはない激しいノリのビートとアクションで若者の魂を揺さぶった。あり余る若さとエネルギーのはけ口として、若者達がこの新しい音楽に熱狂したのは当然のなりゆきだったのである。
プレスリーの登場
昭和30年(1955)、映画「暴力教室」とともに、その主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビル・ヘイリーと彼のコメッツによって音楽界に強烈なインパクトを与え、「ロック」が新しい音楽としてその芽をのぞかせた。そして1954年にレコード・デビューを果していたエルビス・プレスリーが昭和31年(1956)RACに移籍して「ハート・ブレイク・ホテル」で再デビューするとこれが大ブレイク。ビル・ヘイリーと彼のコメッツは概ね白人が演奏する黒人音楽(R&B)=ロックン・ロール。という捉え方をされていたのに対し、プレスリーはカントリー&ウェスタンをよりビートを強調したもの=ヒルビリー。をさらに過激にした。つまりロックン・ロールとヒルビリーを合成して「ロカビリー」と呼ぶようになった。
世界的な大ヒットとなった「ハート・ブレイク・ホテル」は当然日本でも大ヒット。同年の6月にいち早くワゴンマスターズの小坂一也がカバー盤を出し大ヒットさせると、他のポップス歌手(といってもほとんどがウェスタン歌手)もこぞって「ロカビリー」を取り入れるようになり、「ビー・パップ・ア・ルーラ/ジーン・ビンセント」「ブルー・スエード・シューズ/カール・パーキンス」「火の玉ロック/ジエリー・リー・ルイス」「のっぽのサリー/リトル・リチャード」「ロール・オーバー・ベートーベン/チャック・ベリー」といった歌が続々と登場。それぞれが競い合うようにカバーをしてしいった。こうしてカントリー&ウェスタンはトラディショナルな正統派を継続するものと、ロカビリーバンドへと分れていったが、もちろん若者が熱狂したのはロカビリー/ロックン・ロールであり、大ブームへと突入していくのである。
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