戦後−日本ボツプスの黎明期

 外国のポピュラーソングは、もちろん戦前から広く愛されていたが、昭和10年代に熱く燃えたスイングジャズをはじめ、タンゴ、ハワイアン、カントリーなど、カテゴリーも雰囲気も一見、状況は戦後とそれほど変らないように思える。ディック・ミネ、二村定一、岸井明、ベティ稲田、川畑文子、ヘレン隅田などのシンガーによって、原曲だけではなく、カバーも、そして日本のオリジナルも数多く歌われていたという事も。
 この頃のポピュラーは歌謡曲に対しての言葉として、全般的に「ジャズ・ソング」と呼ばれており、彼等もまたおおむね「ジャズ・シンガー」と敬称されることが多いが、実際にはジャンルというものにそれほどのこだわりはなく、そのレパートリーにはハワイアンもタンゴもカントリーもあくまでも流行歌として一様に取り入れられていた。もっとも、流行歌・大衆音楽(ポピュラー)なるものは、演る方と聞く方とが琴線にふれて、感じるものを分ち合えばいいのであって、ジャンルとは便宜上の分類に過ぎず、ポップスだ、歌謡曲だのと律儀に取り分けて優劣をつける類のものではないのである。
 さて、話がそれてしまったが、しかし、4年にも及ぶ第二次世界大戦は、音楽だけではなく、日本人の心情や文化、社会にとってミッシング・リンクとなってしまった。そして敗戦。日本は大きく様変りし、ポピュラーの下地は連綿と息づいてはいたものの、その文化度、エンターティメント性において戦前の比ではない。そしてそれは、アメリカの進駐軍によってもたらされた。

米軍キャンプの時代

 第二次世界大戦後、世界的に大きく動き出したミュージック・シーン。その中で、日本も何かがはじけたようにダイナミックに変化していく。
 昭和20年8月30日。敗戦に打ちひしがれた日本に連合国最高司令官マッカーサーが降り立った。そして占領政策の為にやってきたアメリカ兵は約43万人。彼等、通称「進駐軍」は、日本人から見れば、ついこの間まで戦争をしていたにとは思えないほど、パリッとアイロンの効いた軍服を着てさっそうと街を闊歩し、ポケットからチューインガムやチョコレート、ライターやタバコなどを取出してみせた。大人も子供も薄汚れてボロボロの服に、腹を空かせていた日本人はその国力の差をイヤというほど実感させられた。だが、沈んだ心も、彼等の開放的で明るい振る舞いに救われたのも確かである。日本は豊かなアメリカから学ぶものは多かった。その後、急速にアメリカナイズされていく日本社会は、決して占領政策だけの成果ではないだろう。
 そんな彼等がもたらしたものは物資だけではない。アメリカ文化と共に音楽、そうポピュラーミュージックも持ち込んだのだ。W.V.T.R(FENの前身)のラジオからは、ジャズ、C&W、ハワイアンなどのアメリカ音楽が洪水のように流れ出てきた。ガマンを強いられ、押さえつけられてきた日本人にとっては、それは享楽の泉のように思えたことだろう。かくして、戦後日本のポピュラー音楽は「進駐軍」とともに始ったといっても過言ではない。

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(上)ギブ・ミー・チョコレート。屈託のない子供達は最初に米軍と親しくなった。(昭和20年9月/毎日新聞社)
(右上)ダンス・ホールの募集広告、バンドマンが「楽士」となっている。(昭和20年9月/朝日新聞社)
(右下)占領軍将校用の宿舎。劇場の他、学校、教会などを備えていた。(昭和22年9月/毎日新聞社)

 この昭和20年代に音楽でめし食った人間ならば、ミュージシャンだろうとスタッフだろうと、米軍キャンプと関わりのないものはいないといってもいだろう。おびただしい数のアメリカ軍。そして彼等が住む居住区。通称「米軍キャンプ」には将校や兵士達の為の娯楽施設がつくられた。そこでは様々なショーが行われており、大量の芸人やミュージシャンが必要だったのだ。かくして、プロもアマチュアもとにかく楽器の弾ける者は仕事にありつけるという事で急造バンドが続出した。また、街中でも米軍兵士をあてこんだキャバレーやダンスホールなどの娯楽産業がいち早く復活し、バンドマンだけではなく、ダンサーやコック、ボーイなどの受皿としての機能を果すことになる。
 とにかく、日本人ミュージシャンにとっては、米軍キャンプでのステージはパラダイスだったであろう。歌は当然英語だが、ついこないだまで敵国語を禁止されていたのだから、まともな発音が出来るわけがないのだが、兵士達はそんなことは承知の上、それでも喜んでくれた。それでもギャラが一晩で当時のサラリーマンの一月分に近いのである。さらにベーコンやサンドイッチ、ウィスキーなど、今まで味わった事もないような食事付き、さらに気に入られるとお菓子や洋酒、服などをみやげにくれる。アンコールが相次ぐと兵士がチップをくれる。売れっ子バンドになると、昼も夜も3、4ホールかけもちという猛者も現れた。だから、みんな必死でうまくなろうとした。それに、最初の混乱期には誰でもよかったのが、時間が経ち、落着いてくると自然淘汰されてくる。やはり、実力のないものはお呼びはかからなくなるのは世の常なのだ。こうして生き残っていったのが、シックス・ジョーズであり、スイング・ウェストであり、ワゴン・マスターズであり、後の日本のポップスに限らず、音楽界そのものを背負っていく存在になるのである。

まずジャズがあった

 戦後の混乱期を経て、徐々に落着きを取りもどすとともに、日本の社会にも音楽を享受する余裕が生れてくるようになる。ブルース、ジャズ、そのジャズから派生したヴギ・ウギ。あるいはハワイアン、カントリー&ウェスタンなどが部分的にはクロスオーバーしながら、ポピュラー音楽として定着していった。また一方で、歌謡曲もこれらの音楽を巧みに取入れ、歌謡ポップスのジャンルを築きながら大衆に浸透していった。歌謡曲もまた、伝統的な部分は守りながら、よりモダンで洗練されたものを生み出していったのだ。
 そんな中、まずジャズに火がついた。「渡辺晋(のちのナベプロ社長)とシックス・ジョーズ」。ジョージ川口・中村八大・小野満・松本英彦のスター・プレイヤー4人による「ビッグ・フォア」。のちに個性派俳優となるフランキー堺が所属していた「与田輝雄とシックス・レモンズ」などの日本人ジャズ・バンドが人気を得ていた。この頃のジャズバンドの花形はなんといってもドラマーで、コンサートの形としては複数のバンドによるジョイントが多かったのだが、人気を呼んだのはそれぞれのドラマーによる「ドラム合戦」である。年代はちょっと後だが、昭和32年(1957)の日活映画「嵐を呼ぶ男」(石原裕次郎主演)ではこの「ドラム合戦」が最高の見せ場として描かれており、その熱狂がを伝わってくるようである。
 そんな盛上がりを見せるなか、本場アメリカから昭和27年(1952)ジーン・クルーパー・トリオ、翌28年(1953)にはそのジーン・クルーパーにオスカー・ピーターソン、ペニー・カーターなどそうそうたるメンバーが参加したJATP、さらにルイ・アームストロングなど、大物の来日が相次ぎ、ジャズ・ブームは頂点へと登り詰めていくのだが、ブームはさらに数多くのミュージシャンや歌手を生み出していく。後に歌謡界で活躍する雪村いずみ、江利チエミ、ペギー葉山、フランク永井。あるいは、その後もジャズに徹したナンシー梅木、笈田敏夫、などが人気を得ていた。


●PHOTO:昭和28年、アメリカ遠征から帰国した江利チエミと、出迎える雪村いずみ(左)ペギー葉山(右)その左隣は松島トモ子。(平凡)

●アメリカから大物ジャズプレーヤーの来日も相次いだ。

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