「エレキブーム」と言うからには、それをささえるバンドが数多くいたわけで、まさに雨後のタケノコのように次から次へと出現してサウンドを競ったのだ。しかし、何もないところから突然出てくるはずもない。では、エレキバンド以前は何だったのかというと、日本ではロカビリーブームを支えてきたプロミュージシャン達が移行してくるというパターンがほとんどだった。(寺内タケシ、ブルーコメッツ、田辺昭知など)これに大学や高校におけるハワイアンやカントリーを中心とする軽音楽活動の動きの中から、腕に覚えのある連中(サベージ、フィンガーズなど)がいち早くエレキ・バンドを編成してプロになっていくというひとつの流れが加わった。
 一方アメリカでは、圧倒的にサーフィン・ミュージック、ホット・ロッドからの移行組(ディック・デイル、サファリーズなど)、というかエレキ・インストそのものが、このサーフィン・ミュージックから発展したものなので当り前のことなのだが。これにカントリーやロックミュージシャンがこぞって参加してくることとなりにぎやかさが増していった。
 ヨーロッパもアメリカと似たような状況で、サーフィンバンドこそ少なかったが、カントリーやロック、果てはシャンソンやカンツォーネなどから移行してくるミュージシャンは後を絶たなかった。ただ、スプートニクスのボー・ウィンバーグやザ・サウンズが電気工学に造形が深く、アンプやアタッチメントに工夫を凝らしたいわゆる「北欧サウンド」と呼ばれるクリーンな音で、アメリカのストレートでややノイジーなサウンドとは一線を画していたのが特徴的であった。
 これらのエレキギターによるインストゥルメンタル・バンド、あるいはエレキ・コンボ(以後エレキ・バンドで統一)はその活躍の場はほとんどが、ローカルレベルのコミュニティやキャンパスのイベント、あるいはライブハウス、ダンスホールなどのパーティバンドとしてのものだった(最近はガレージなどと呼称しているが、当時の言葉としてはポピュラーではなかったのであえてここでは使わない)。つまり、大抵は300人くらいから多くてもせいぜい500人くらいまでのキャパがメインだった。ちなみに伝説となっているあのベンチャーズ・ライブ・イン・ジャパンの会場である厚生年金会館にはじめて4人が入ったとき、「こんな広い会場でやるのは初めてでビックリした」と、後にドン・ウィルソンは語っている。
 レコードも当然、ダンス・ミュージックとしての扱いで、まあ、日本で言えば「歌のない歌謡曲」的なものであろうか、ミュージシャンがその時々のヒット曲をインストゥルメンタルでカバーするといった類のものがほとんどだったのだから無理もないのだが、要するにグレード的にはやや下に見られていたのである。ところが、1963年あたりからこのエレキ・インストは世界的なブームとなり、第一線に躍り出てヒット・チャートをにぎわすようになると、もうそれはひとつのカテゴリーとして認知されることとなる。
 ではここで、そのブームの一翼を担った愛すべきエレキ・バンド達の主なものを紹介しよう。

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