カントリー&ウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」(のちのドリフターズのリーダーいかりや長介やドンキーズのジャイアント吉田なども在籍)のギタリストだった寺内タケシが満を持して1962年6月に結成したのがブルージーンズである。だが、この当時はロカビリー全盛で、編成もテナーサックスやピアノがあり、1963年後半くらいまでは、おもにロカビリー歌手のバックを務めたり、ボーカルとして堀まさゆきや内田裕也などが入れ替り参加したりという活動だった。
 エレキ・バンドとして形を成すのは、エレキ・ブームのきざしが見え始めた1964年からで、メンバーは小刻みに交代しているので、ここでは述べないが(とても複雑でめんどくさい)1966年くらいまでが、エレキバンドしての第一期時代だとすると、この時期にはのちにワイルド・ワンズを結成する加瀬邦彦が在籍しているのが目立ったところであろうか。
 このバンドはなんといっても「エレキの神様」寺内タケシのキャラクターがすべて。リーダーでありリード・ギタリストの寺内タケシは、アメリカの音楽雑誌「ミュージック・ブレーカ」にチェット・アトキンス、レス・ポールと並んで「世界三大ギタリスト」に選ばれるなど、そのテクニックは広く海外にまで知れ渡り、またポップスのみならず、クラシックから日本民謡、古典邦楽までアレンジしてしまうそのアイデアとセンスで、日本におけるエレキ・インストのトップ・プレイヤーとして、ギター・キッズのカリスマとなった。
 だが、寺内タケシは1967年4月、突然の病に倒れ活動休止を余儀なくされる。また、ブルージーンズは渡辺プロダクションの所属であり、寺内にとってはいろいろと不自由な面を抱えていたことからこれを機に脱退、事務所もやめて独立し、6月に退院後「寺内企画」を創設。8月に新たに「バニーズ」を結成した。初期のバニーズはインストが中心であったが、折からのGSブームで徐々にボーカル中心へと路線変更してブームの一翼を担う。その後メンバーとの確執などがあり、ブーム衰退ととともに解散、1969年に再びブルー・ジーンズを結成。これが第二期となる。
 また、寺内タケシはこの間、日本中がエレキ・ブーム、それに続くGSブームに沸きかえる中、大人社会の「エレキ=不良」という偏見と風評に心を痛め、全国の学校、施設をくまなく周り、コンサートを通して理解を深める活動を地道に行うなど、その華やかな名声の陰で、第一人者としての自覚と責任ある行動は、エレキのみならず、日本ポップス界の普及に多大なる功績を残したと言っておきたい。
※1967年に、クラシックをアレンジしたアルバム「レッツ・ゴー運命」で寺内タケシがレコード大賞編曲賞受賞。エレキ・インストゥルメンタルがレコード大賞に選出されたのは、後にも先にもこれだけである。ちなみに大賞はブルー・コメッツ「ブルー・シャトー」が受賞しており、日本の大衆音楽が新しい時代に入ったことを象徴している。

HOMECATEGORY TOPBACKNEXT

Copyright (c) 1999-2003 A Ringo House. All Rights Reserved.
掲載の記事・写真・イラスト等の無断転載を禁じます。記事の著作権はRingo Housoに帰属します。