日本中がエレキ・ブームに沸いていたさなかの1965年「霧のカレリア(Karelia)」が大ヒットした。それまで、ザ・サウンズが「さすらいのギター(Mandschurian Beat)」をヒットさせてはいたものの、ブームの中心はアメリカのバンドであり(といってもほとんどベンチャーズだが)、「スペース・サウンド」と呼ばれる、スプートニクスの独特のクリアなサウンドと哀愁を帯びた美しいメロディは新鮮なインパクトを与え、日本のエレキ・キッズたちに「北欧エレキ・インスト」を認知させたのだった。
 ところで、この「霧のカレリア」、ほぼ同時期にフィネーズというグループの「哀愁のカレリア」が発売され、こちらもそこそこ売れていた。このふたつの曲、というかレコードはほとんど同じメロディ、同じサウンドであったことから、パクリ説、ものまね説などが出て、いわゆる「霧のカレリア騒動」となったわけだが、当時は情報がほとんどなく(特にヨーロッパは資料を送って来ないことが多い)真相は闇の中、ずっと後になって、「哀愁のカレリア」は1961年にフィンランド・フィリップス社でボー・ウィンバーグ自身の多重録音によって制作されたものと判明、どうりで似ているはずだが、スプートニクスの「霧のカレリア」の日本での発売元はポリドールであり、フィリップスは対抗措置としてレーベル提携の日本ビクターからボー・ウィンバーグ盤「哀愁のカレリア」を発売したというわけで、単なる本家争いだったわけだ。なお、「霧のカレリア」はヨーロッパではパッとせず、日本だけのローカルヒットであった。
 スプートニクスは1960年にスェーデンで結成。インスト・バンドと思われがちだが、実はカントリーを得意とするボーカル・バンドでもある。メンバーはリード・ギターのボー・ウインバーグを中心に、ボーカルとサイド・ギターがボブ・ランダー。ベース・ギター、ビョン・テリン。ドラムス、オーベ・ヨンソンの4人組でスタート。1966年に日本に初来日した時は、ドラムスがジミー・ニコルに替り、オルガンにピーター・ウィンズネスを加えた5人編成だった。
 最初はスェーデンの「カルーセル」というレコード会社に所属。この当時の曲としては「銀河の彼方に(Old Clock at Home)」「ジョイズ・ソング(Joy's Song)」(日本では同時カップリング)などがある。
後に「スェディッシュ社」に移籍するが、「カレリア騒動」も、この頃の移籍のゴタゴタに起因しているのかも知れない。
 さて、エレキ・ブームとはいっても、ほとんどのバンドが一発で消えていくのに対して、スプートニクスはベンチャーズと並んで数多くのヒット曲を出している。また、実際のライブではレコードのイメージよりはるかにレベルの低い演奏でガックリとさせるバンドが多かったのに対し、スプートニクスは、これまたベンチャーズと並んで期待通りのライブ演奏を聴かせてくれたバンドでもあった。イギリスのシャドウズを加えて「世界三大エレキ・バンド」と言われるゆえんである。
 また、日本人作曲家によるオリジナルナンバーが多かったのも特徴で「涙のギター」「モスクワの灯」「マン島から来た男」などがあり、その他、歌謡曲のカバーなども含めると、日本に対する想いは相当に強かったことがうかがえる。

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