PHOTO:ベスト・オブ・ベンチャーズ Vol.2(東芝音楽工業)

神様とヒーローと若者たち

 エレキ・ブーム。「ブーム」というものは音楽に限らず、偶然性と必然性がタイミング良く重なり合って生まれてくるものだろう。もちろん「仕掛け」もあるのだが、それとて、その「機」を感じたからにほかならない。何もないところに何かをやろうとしてもそれは無理というものである。
 エレキ・ブームがブーム足り得たのは、まずベンチャーズがいた事はもちろんだが、多くのフォロワーの存在も見逃してはならない。中でも中心的役割を果したのが寺内タケシと加山雄三であろう。
 寺内タケシは、カントリーブーム、その後に続くロカビリーブームを経て、1964年に自らのバンド「ブルー・ジーンズ」を本格的なエレキスタイルに編成し直し、6月に日本初のインストアルバム「これぞサーフィン」「太陽の彼方に」をリリースした(のちのワイルド・ワンズのリーダー加瀬邦彦が所属)。そうして、ベンチャーズはもとより、アストロノウツ、アニマルズといった、続々来日する外国バンドと共演、一歩もひけをとらず、「日本に寺内あり」と、広く内外にその存在を示した。また、カバーだけではなく、オリジナルはもちろん、日本民謡やクラシックをエレキにアレンジしたレコードを次々とリリース、日本人によるインストゥルメンタルとしては驚異的な売上げを記録するなど、「エレキの神様」として君臨した。
 加山雄三は1965年12月に公開された主演映画、「エレキの若大将」の大ヒットで一躍エレキブームの中心的ヒーローとなった。この映画で、ただ単に俳優として「演じた」だけならば、ここまでヒーローとはなり得なかったであろう。映画の内容は、老舗のすきやき屋の息子がエレキバンドを結成し、コンテストで優勝したりするなどして、やがて経営が悪化する店を再建するためにプロになって成功するというものだが、このプロセスが、実際にバンドをやっているものにとっては、実にくすぐったくなるほどリアルに描かれていて、全国のエレキを持った多くの若者たちは「そうだよなあ」と、そこに自分の姿を重ね合せて観ていたのだ。そしてなによりも若者の共感を得たのは、彼自身がエレキ・ギターを実際に弾けたこと、うまいかヘタかは別にして、うそっぽくない等身大の実像をそこに観たからである。
 そして、もうひとつ、1965年6月にスタートしたフジテレビの番組「勝ち抜きエレキ合戦」を挙げておかなくてはならないだろう。「勝ち抜きエレキ合戦」はいわば「のど自慢」のエレキ版といった方がわかりやすいだろか、毎週アマチュアバンドが5組出場して腕を競い、チャンピオンを決めるというもので、審査員は5人、一人10点で最高点は50点。4週勝抜きでグランドチャンピオンとなる。のちに全国で開催されるようになるエレキバンド・コンテストの基礎となった番組であり、夜7時のゴールデンタイムという、この種の番組としては今では到底考えられない時間帯での放送で、司会は子役からロカビリー歌手となっていた鈴木やすし(のちにヤスシ)が担当。アシスタントはジュディ・オングまたは槇杏子。テーマソングがシャープホークスで、そのバック演奏と模範演奏をしていたのがシャープファイブだった。(シャープホークスとシャープファイブはGS時代に一緒に活動する)
 「勝ち抜きエレキ合戦」はブームに乗って一躍人気爆発。アマチュアバンドの登竜門としての位置づけもなされ、出場申込みはひきを切らなかった。当然のことながら、参加バンドのほとんどがベンチャーズナンバーで占められていたが、回を追うごとに急激にレベルアップしていき、より難易度の高い曲を競うようになる。1966年に入ると、当時アマチュアでベンチャーズを弾かせたら実力No.1と言われたファナティックス(のちのゴールデンカップス)が登場。チャンピオン間違いなしと見られていた。ところがこれを破ったのがシャドゥズの「ニプラム」を演奏したザ・サベージだった。演奏技術の高さはもちろんだが、すでに審査員がベンチャーズに食傷気味だったという噂もある。いずれにしても、ベンチャーズ一辺倒の中でシャドウズナンバーが新鮮だった事は確かだろう。サベージはこの後も「霧のカレリア」「紅の翼」などの他、同じベンチャーズでも「急がば廻れ4分の5拍子」という離れ業を演奏して観客の度肝を抜きチャンピオンとなった。そして、アンチ・ベンチャーズのもう一方の雄がフィンガーズである。
 フィンガーズは慶応大学の学生バンドで、1964年の4月に銀座ヤマハの提案で結成された学生アマチュアバンドのサークル、T.I.C(Tokyo Instrumental Circle)の創設時のメンバーであった。このサークルには、他に、立教大学のビートニクス、慶応大学のプラネッツ(ザ・スペイスメンの前身)、学習院のドルフィンズ(三笠宮殿下が所属)などのバンドが所属していた。非常に高いレベルを誇り、このサークルからは小松久(のちのヴィレッジ・シンガーズ)都倉俊一(後の作曲家)などが輩出している。
 そのフィンガーズは1966年の5月に「勝ち抜きエレキ合戦」に出場。独自にアレンジした「荒城の月」で第1週目に50点満点を叩き出し、その後も「BUMBLE BEE」(ベンチャーズのアレンジとは別)やオリジナルの「0戦」など、驚異の速弾きとオリジナリティで、他のバンドが戦意喪失するくらいの格の違いを見せつけてチャンピオンに、さらに歴代チャンピオンを集めた「グランドチャンピオン大会」でもグランプリに輝いた。
 こういった数々の伝説を生みだす事になる「勝ち抜きエレキ合戦」の熱気はただちに他局へと波及、8月にテレビ東京が「エレキ・トーナメント・ショー」(テスコ提供で司会は世志凡太)。10月に日本テレビ「世界へ飛び出せニュー・エレキ・サウンズ」。NET「エキサイト・ショー」と類似番組を次々と登場させた。なお、「世界へ飛び出せニュー・エレキ・サウンズ」はホリ・プロの企画で、当時所属していたスパイダースがレギュラー出演している。そして、ザ・サベージはここでグランプリを獲り、優勝特典である「ヨーロッパでのレコーディング」でロンドンへ旅立った。ところが、その間に日本はブリテイッシュ・イノベーションの洗礼を受け、エレキ・ブームはインストからボーカルへと一気に様変り、あわてたホリ・プロは渡英中のザ・サベージに対し、ボーカル曲への変更を指示、こうして生まれたのが佐々木勉作詞・作曲による「いつもでもいつまでも」であり、ザ・サベージはインストバンドではなく、ボーカル・グループとしてデビュー。すぐ後にブームとなるGSの先鞭をつけたのだった。
 話がそれてしまったが、エレキ・ブームがいかに特徴的であったのかは、がこういったアマチュアバンドの異常な盛り上がりに見ることができる。そう、エレキ・ブームを支えていたのは、日本全国に突如として出現した「にわかギタリスト」たちによるアマチュア・バンドであった。

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PHOTO:NORAコレクション

広く内外のプレーヤーにもその実力を認められ、日本では「エレキの神様」と呼ばれた寺内タケシ。プレイだけではなく、「エレキ=不良」の誤解を説くべく東奔西走。エレキを文化としてとらえた日本ポップス界の重鎮。


PHOTO:東芝音楽工業

東宝映画「エレキの若大将」で主役を演じ、一躍ヒーローとなった。演技ではなく実際にエレキを弾き、作詞・作曲もこなすという多才ぶりを発揮。この映画の主題歌「君といつまでも」は300万枚を超す大ヒットに。


フジテレビの「勝抜きエレキ合戦」の模様。

PHOTO:朝日新聞社

シャープホークスのバックで演奏するシャープファイブ。「♪燃えろ燃えろエレキ、若さでぶつかれエレキ〜」

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