時代そのものがブーマーだった。

 60年代・・。「ゴールデンシックスティーズ」とはよく言われる言葉だが、まさに黄金のようにキラキラと輝いた10年間であった。今、世の中にあるものの原型はほとんどがこの10年間に出尽している。少しばかり乱暴な言い方をすれば、60年代をひきづっていた70年代はともかく、80年代、90年代はその惰力、リメイクで流れていったようなものである。そして、60年代は大きくめまぐるしく動いた、まさに激動の10年間と言ってもいい。したがって、一口に60年代といっても初期と後期では大きく違う。もう千円札と一万円札くらい違う。そのターニングポイントとなった中期の3〜4年は社会的にもいろんな出来事がぎゅっ!と凝縮されており、今の10年分くらいに相当する密度であったように思う。ONがいてウルトラマンがいた。そのウルトラマンは3分間しか活動できなかったが、インスタント・ラーメンは3分間で出来たのだ。日本の戦後復興の象徴「東京オリンピック」も開催された。貧乏人は麦飯を食っていても、高速道路と新幹線は作ってみせたのだ。それになんといっても、人類が初めて宇宙空間で泳いだ。これがスゴイ!。一方、負の遺産としてベトナム戦争があり公害問題もあった事を忘れてはならない。エレキ・ブームはまさにそんな時に起きていた。
 エレキブームはあまりにも大きな波だが、その中にあって、ほとんど同時進行で、実は小さな波がいくつもあった。キングストン・トリオ、ブラザース・フォアに代表されるアメリカン・トラディショナル・フォークソングの台頭。シルヴィ・バルタン、アダモなどのフレンチポップス。ジリオラ・チンクエッティ、ボビー・ソロなどのイタリアンポップス。さらには映画のサウンドトラックまでもがヒットチャートをにぎわし、「エレキだけではないぞ」と、その存在感をきっちりと示していたのだ。また、エレキ・ミュージックそのものも、ツイストあり、ゴーゴーあり、モンキー・ダンスあり、「一体どうしてくれるんだ」とばかりに、まさに群雄割拠だ!音楽のるつぼだ!日本におけるポピュラー・ミュージックの全盛期。それはとりもなおさず、超高度経済成長時代の日本を象徴する一面であったとも言える。

モダン・フォークの台頭

 1958年にキングストン・トリオの「トム・ドゥリー」が全米No.1のヒット、翌’59年1月に日本でも発売されヒットした。‘61年には早くもキングストン・トリオが来日、翌‘62年にブラザース・フォア、さらに翌‘63年にピート・シーガーが来日している。これを受けて、日本では大学のキャンバスを中心にしてフォーク・ソングブームが起き、そのイベントは「フーテナニー」と呼ばれ、各大学主催で続々と開催された。フォーク・ギターを持って歌いだしたという点ではエレキかアコギかの違いだけで、ベンチャーズのそれと同質の流行であったといえるが、こちらの中心は成城、青学といった、どちらかというと育ちの良い「良家のお坊ちゃん」的な若者が多く、多種多才な人間が混在していた「エレキ」とは雰囲気は異にしていた。
 詳しくはフォークのページで述べるこになると思うが、‘66年にモダン・フォーク・カルテットのリーダーだったマイク真木が「バラが咲いた」でデビュー。「日本初のフォーク・ソング」のふれ込みだったが、作詞・作曲はポップス色が強かったとはいえ、既成の作曲家、浜口庫之助で、明らかに売れ線狙い、当時のフォーク青年たちをガッカリさせた。それでも、この曲は思惑通りに大ヒット。この成功を受けて、黒沢久雄のいたブロード・サイド・フォーが「若者たち」でデビュー。さらに成城学園高等部3年生だった森山良子が「この広い野原いっぱい」でデビュー。この曲は森山良子の自身の曲で、おそらく日本フォークとしてはオリジナルヒット第一号であろう。こうして「カレッジ・フォーク」と呼ばれた第一次フォークソング・ブームは静かにその勢いを増していった。
 また、スチューデント・パワーという推進力を得たサブ・カルチャーの波は、音楽のみならず、ファッションをも巻き込んでいった。カレッジ・フォークのグループはそのほとんどが、アメリカン・トラッド、アイビー・ルックに身を包み、これが一般学生にまで普及し、女子学生のミニ・スカートの流行と合わせて、そのカジュアルなスタイルは、それまでの学生服、白いブラウスにプリーツ・スカートを一気に古い物へと追いやったのだ。

何故かヨーロピアン・ポップス

 エレキ・ブームの喧噪の中で、何故かフランスとイタリアの甘くやさしいポップスと映画がウケまくっていた。1964年11月に公開されたフランス映画「アイドルを探せ」。その中のワン・シーン。ステージで歌うシルビィ・バルタンの妖艶な魅力に多くの若者が取り憑かれた。主題歌の「アイドルを探せ」はもちろん大ヒット。さらに1965年のユーロビジョン・コンテスト優勝曲「夢みるシャンソン人形」をひっさげて登場のフランス・ギャル。「乙女の涙」で可憐な歌声と容姿を披露したシャンタル・ゴヤ。カンツォーネ風の「そよ風にのって」でイタリア人と間違えられたマージョリー・ノエル。男性では「雪が降る」のサルバトーレ・アダモなどが日本を席巻したのだ。なお、シルビィ・バルタンは‘65年、フランス・ギャルは‘66年にそれぞれ来日公演を果している。
 余談だが、この勢いに乗ったのかどうか、ファッション界では「イエ・イエ」と呼ばれたフレンチ・ロックのリズムに乗って、レナウンからレディース向けのニット・カジュアルが登場、若者ファッションは既成服ブームとなり、街には「イエ・イエ娘」が闊歩した。
 一方、相前後するように、イタリア「サンレモ音楽祭」の入賞曲も次々と日本で紹介され、カンツォーネがヒット・チャートをにぎわした。1964年にジリオラ・チンクエッティの「夢みる想い」、ボビー・ソロの「ほほにかかる涙」が大ヒット。それぞれ、伊東ゆかり、布施明が日本語でカバーし、さらにこの二人は「サンレモ音楽祭」に参加するなど、ちょっとしたイタリアブームの様相を呈していた。
 この他、ギタリストのクロード・チアリやトランペットのニニ・ロッソ、ポール・モーリア・オーケストラなどの、いわゆる「イージー・リスニング」と呼ばれたインストゥルメンタル曲、そして映画のサウンド・トラックなどが、それぞれ、そのはざまの中で光を放っていた。
 こうして、エレキ・ブームという大きな大きな波の中にあっても、それに偏執することなく、老若男女、幅広い世代に向け様々な音楽を発信していった業界と、それを受容していった大衆のキャパシティとエネルギーの凄まじさはどうだ。多種多様な音楽に彩られた60年代のこの輝くばかりの時間。そしてその柔軟さを見るにつけ、現代のあまりにも偏りすぎた音楽業界が、ほんの一部にしか光を当てていないのだということを、多くの人間に知って貰いたいと思う。

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1962年、ブラザース・フォー来日、日本にフォーク・ブーム、フーテナニーを巻き起しただけでなく、アイビーファッションの生きた手本でもあった。


PHOTO:ビクター・レコード
(とろりん村のとろり所蔵)

シルビィ・バルタンの日本デビュー盤「アイドルを探せ」。まだ20歳そこそこでこのお色気に日本の若者はクラッ!ときた。

PHOTO:フィリップスレコード
(とろりん村のとろり所蔵)

キュートなルックスと歌声でアイドルとなったフランス・ギャル。「夢みるシャンソン人形」


PHOTO:東宝東和

イタリアにもあった人気歌手総出演の青春映画。「砂にかかる涙」でブレイク寸前のミーナが出演していることで話題となった。

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