PHOTO:近代映画社

ブームが残したもの

 日本語カバーポップスのブームが去り、その時に活躍した多くのティーンズ歌手が歌謡曲に移行して、ポップス色の強い、いわゆる「歌謡ポップス」あるいは「ポップス歌謡」どちらでもいいが、ちなみに洋楽レーベルが「ポップス歌謡」邦楽レーベルが「歌謡ポップス」なんだそうである。(コンセプトは同じ)なるほど。とにかく、そういう新しい潮流が生まれた。
 ジャズ、ハワイアン、マンボ、タンゴ、その時代時代に流行ったものは何でも貪欲に取入れて消化してきた歌謡曲は、トラデイショナルな根っ子の部分はしっかりと残しながらも大きな動きを見せはじめ、60年代初期から70年代に移るくらいの間はまさに過度期、様々な音楽・リズム・サウンドが融合分裂を繰り返し、クロスオーバーするように入れ代っていく。それは変化というよりはキャパシティがどんどん膨らんでいったと表現すべきであろうか、まさにカオス(混沌)の時代といってよかった。中でも主流はティーンズを中心した強いポップス志向であり、そういった空気はレコード各社をはじめとする歌謡界全体が感じ取っていたこともあって、新しいリズム・サウンドを次々と取り入れた「歌謡ポップス」はひとつの大きな流れとして確立していったのだ。そしてそのど真ん中にやってきたのがベンチャーズを中心としたエレキ・ブームである。
 いち早くエレキ・サウンドを取入れ、はっきりと打ち出したのは御三家の一角、橋幸夫であった。吉田正、佐伯孝夫という一時代を築いたビクターのコンビは、この時代の動きを敏感に感じ取っていたに違いない。1964年9月に「恋をするなら」を発売。続いて、原田良一のリードが冴えわたるザ・スペイスメンをバックに「チェッチェッチェッ」、翌1965年7月にサーフィンの変形「スイム」をフィーチュアーした「あの娘と僕」と、これら一連の曲は「エレキ歌謡」と銘打たれ、いずれもヒットした。のちにGSブームの草分けとなるザ・スパイダースが、エレキバンドとしては初のオリジナル「フリフリ」(この曲はボーカルナンバーであったことからGSに移行していく遠因になったとも言える)を発売したのが1965年の5月であるから、いかに早かったかがわかる。これを皮切りに、もともとポップス志向の強かった西郷輝彦、美樹克彦や、望月浩などが「エレキ歌謡」と言うべき曲を続々と発表。さらには北原謙二や、「袴のお姉さん」畠山みどりまでもが歌うはめとなるのである。
 これらの動きは、それまでの伝統的(確固たる専属制)な歌謡曲・流行歌制作の手法の延長線上にあるものだが、これとは別にもうひとつの動きが現れていた。「もはやカバーの時代は終った」。まったく新しい日本オリジナルのポップスを作ろうというものである。それには既成の(専属の)作家、歌手にとらわれていてはだめだ。だが、永年かたくなに守られてきた専属制の壁は厚い。そこでとられた策が輸入部門。つまり提携している洋楽レーベルでの制作・発売である。このことは、「オリジナルポップスを作ろう」というのであるから、従来の歌謡曲との差別化を図るという意味の狙いもあった。
 コロムビアの洋楽部門、CBSのディレクター泉明良が出した答、それが1965年4月にリリースされたエミー・ジャクソン「涙の太陽」である。エミー・ジャクソンはイギリス生れで横浜在住のハーフ。当然、全編英語で通した。「涙の太陽」は作曲が中島安敏、作詞が湯川れい子(クレジット名はHot Rivers)。バックで「テケテケ」とエレキサウンドを響かせているのが、架空のバンド(スタジオ・ミュージシャンのユニット)「スマッシュメン」で、明らかにエレキ・ブームを意識したものだ。なお、一時期、このスマッシュメンはGSでデビューする前のブルーコメッツではないかという噂が出ていたが、そっくり丸ごとブルーコメッツではない。詳しいことは別のカテゴリーで述べるが、ここでは、一部のメンバーが参加していた可能性はあるとだけ申しておこう。
 話がそれてしまったが、こうして洋盤として発売された「涙の太陽」は邦盤よりも40円高い(当時の邦盤は330円、洋盤が370円)にもかかわらず大ヒット。夏までに70万枚を売上げた。実は各社が同時期に同じような企画を暖めていながら躊躇していたのはこの価格差にあったのだが、「涙の太陽」のヒットはそれを見事に打ち破ったのである。まさにこれをブームの勢いと言わずしてなんであろうか。その後、CBSはブルーコメッツを、ビクター/フィリップスは本城和治の手によってスパイダース、マイク真木等を売り出し、日本のオリジナルポップス、いわゆる「ポップス歌謡」と呼ばれるものは大きな道を切り開き、すぐ後にやってくるGSブーム、フォークブームへと続いていく事になる。

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PHOTO:CBSコロムビア

伝統的なレコード業界の専属制の壁を乗り越え、洋楽レーベルでの販売というまったく新しいトライの仕方で、ニューウェイブ歌謡の口火をきったエミー・ジャクソン「涙の太陽」。


PHOTO:日本ビクター

御三家に君臨していた橋幸夫が、いち早くエレキサウンドを取り入れたのは歌謡界の第一人者としての貫禄か、昭和39年9月の「恋をするなら」を皮切に「あの娘と僕」までの4作で200万枚を売上げた。


PHOTO:東芝音楽工業

叙情派青春歌謡でデビューした望月浩はブームとともにポップス歌手に転身。「君にしびれて」は「エレキ演歌」というふれ込みだったが、どう聞いてもこれは演歌などではなく、上質の歌謡ポップスである。


PHOTO:クラウンレコード

子役やカバーポップスで活躍していた目方誠が、名前も美樹克彦となって新生クラウンから再デビュー、「俺の涙は俺がふく」はイントロ部分の指パッチンが新鮮だった。しかし、このB面の「霧の峠」は、まったく趣の違う叙情歌謡だが、これが隠れた名曲。

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