PHOTO:NORA'Sコレクション

若者は参加する楽しさを知った

 エレキ・ブームは、ただ単にひとつの音楽ジャンルが流行ったというだけではなく、多くの若者が自分達で演奏する楽しさを知った事、そして計り知れない社会的影響をも巻き起した事で、それはひとつの「現象」と言ってもよかった。
 ギター2本(場合によっては1本でもよい)ベースギター1本、それにドラム。この「ベンチャーズスタイル」と呼ばれたシンプルな構成は若者に「やる気」を起させた。とにかく4人揃えばバンドが組める。それまでのブームを例にとると、ジャズは難しそうだし、ハワイアンじゃインパクトに欠ける、マンボなどラテンのフルバンドとなるとおいそれとは人数は集められない。だがベンチャーズならわずか4人であのサウンド・迫力、そして、なによりも新しい楽器「エレキ・ギター」はカッコ良かった。なにしろ、それまでのギターのイメージと言えば、近所のオヤジが、ガットギターをボロンボロンと「影を慕いて」「湯の町エレジー」、よくて「禁じられた遊び」なぞを弾いていたくらいで、とても若者が「弾きたい!」と思えるようなシロモノではなかったのだ。しかし、エレキ・ギターならサマになる。それにとりあえず楽譜が読めなくても耳でコピーできる曲はたくさんある。もう、じっとしていられるわけがない。こうして、それまでの「聞く」音楽から「自分で演奏する、参加する」音楽の楽しさを知った若者たちはまるで熱に冒されたようにエレキに飛びついた。
 さて、エレキをやるにはまずエレキ・ギターを買わなければいけない。これが問題だ。高かった。ベンチャーズの「モズライト」やスプートニクスの「フェンダー」などとんでもない。国産の安いギターでも当時の若者の一ヶ月から二ヶ月分の給料くらいはした。それにアンプも必要だ。社会人とておいそれとは手が出せない、ましてや高校生となるとよほどの金持ちのお坊ちゃんでなければそう簡単には手に入らなかったのである。したがって急に真面目に働きだし残業も積極的にやる、勉強そっちのけでバイトに精を出す。こうしてやっとの思いで手に入れたエレキ・ギター。だがバンドを組むともうひとつの難題が持ちあがる。練習場所である。なにしろ音が強烈だ。まだ貸しスタジオなどほとんどない時代。お寺や公民館、工場の倉庫などが主な場所であった。だが、なんとか借る事が出来てもすぐに近所から苦情がでる。重い楽器を抱えて移動してはまた追い出されるという繰り返し。しかし彼等はめげなかった。そういった苦労も人前で演奏すれば一気に吹き飛ぶ。ダンス・ホールやビヤ・ガーデン、海水浴場や祭りの会場までが彼等のステージとなり、アマチュアといえどもそこそこの腕があれば活躍の場には事欠かない。それに、多少なりともギャラをくれる場合もある。こうしてエレキは風俗として社会に浸透していくのである。

猫も杓子も、そして社会問題化

 若者が楽しい事は大人達は眉をひそめる。これが世の常。「ウチの子に限って・・・」などと言ってる間にみんなエレキに夢中。「勉強もせんで・・」「高校生がダンス・ホール・・」「エレキは非行・不良の原因」「しかもウルサイ」。大人達と若者の認識の差はどうしょうもない。特に高校生や中学生を抱える親、教育現場では問題を深刻化させ、なんだかんだと理屈をつけては反エレキ運動を展開、大きな社会問題として「エレキ」は国会でも議論される事となった。そして1965年10月、ついに栃木県足利市教育委員会が「エレキ禁止令」を発令。全国で追随する自治体も出るなどして、各地のコンサート会場では入場を阻止しようとする教職員とつめかけた学生達とのバトルが日常的に繰り広げられた。
 だが、一度燃え上がった若者のエネルギーはもはや誰にも止められない。時代は大きく変わろうとしていた。そして一方ではブームに乗じる大人達もいる。批判しながらも儲け話を放っておく手はない。なんと言っても「エレキ」は金になるのだ。とにかくエレキ・ギターが売れる売れる。アンプも売れる。ついでにドラムも売れる。それまでLM楽器の専門メーカーは「グヤトーン」や「テスコ」など数社しかなかったのが一気に100社を超え、「ビクター」「コロムビア」などの家電部門を抱える音楽産業はもとより、ハーモニカメーカーの「トンボ」バイオリンメーカーやピアノメーカーまでが製造に乗りだし、それまで細々と楽器を作っていた町工場は一転して増産に追われる毎日となった。
 この凄まじいエレキの波は当然のことながら歌謡曲の世界にも押し寄せた。ただ、すべてが右へ習え、エレキ一辺倒だったのかというと必ずしもそうではない。エレキ・ミュージックが大きくブレイクしはじめた1964年、昭和39年という年は、前年に誕生した新生クラウンレコードのホープ、のちの御三家となる西郷輝彦がデビューしている。その御三家の橋幸夫、舟木一夫はまさに絶頂期、また都はるみが「アンコ椿は恋の花」でトップスターの仲間入り、そしてレコード大賞曲、青山和子の「愛と死をみつめて」、さらにはマヒナスターズの「お座敷小唄」、ペギー葉山の「学生時代」と、青春歌謡あり、宴会ソングあり、演歌あり、歌謡ポップスありのまさに百花繚乱、翌1965年にかけてもその流れは変らず、エレキブームを横目にみながら、歌謡曲黄金時代を謳歌していた。
 よほどのマニアックな洋楽ファンでない限りは、「十番街の殺人」を聞いたあとに「十七才のこの胸に」も聞くといった具合に、歌謡曲ファンからすればビートルズはかなり異質で遠い存在だけども、ベンチャーズ及びエレキ・ミュージックに対してははどことなく親しみやすさがあった事は確かだろう。スプートニクスやアストロノウツなどはは早い段階から日本の曲をカバーしていたし、そういう意味でエレキは特別視されることなく、かなり広い層に受け入れられていたといえる。(逆にガチガチの洋楽ファンからは疎外されていた感もあるが・・)そういえば、あれだけ「エレキ反対」を叫んでいた大人達も、その矛先は日本の若者達に向けられていたものであり、その発端となったベンチャーズに対する批判はついぞ聞いたことがない。おそらく、あの大人達は、ベンチャーズやエレキ・ギターそのものよりも、いまだかつて体験したことのないこの空前のブームに、得体の知れない不安を感じていたのかも知れない。

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PHOTO:NORAコレクション

続々と誕生したアマチュア・エレキ・バンド。ピーク時には東京だけで2000はいると言われ、日本全国各地でコンサートやダンスパーティが大盛況、カラスが鳴かない日はあっても、エレキの音が聞えない日はなかった。


PHOTO:宝島社

ハーモニカメーカーの「トンボ楽器」もエレキ・ギター製作に乗りだした。これはその時の雑誌広告。セルロイド・ボディにはオドロキ。


PHOTO:宝島社

こちらは「グヤトーン(東京サウンド)」の雑誌広告。「テスコ」とならんで国産エレキの2大ブランド。だが、本当はみんなモズライトが欲しかったのだ。

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